恋するバンコク
彼とデート
十一月も終わりになれば、街はどこもクリスマス・ムードだ。仏教徒が九割以上を占めるタイだけど、一方で楽しいことがすき、というあっけらかんとした国民性からか、日本と同じように大型デパートの前やホテルの中にはツリーが飾られている。
サワン・ファー・ホテルも例外じゃない。ロビーには薄水色の大きなツリーが飾られ、ロビーにはエンドレンスでホリデー・ソングが流れている。厨房の料理長はガラディナーと呼ばれる年末オリジナルメニューの内容を発表した。タワンは以前にも増して忙しそうで、あまりロビーで見ることもなかった。イベント企画部のチーフと経理総務のチーフがひっきりなしにタワンを追いかけては、事務所スペースの会議室に押し込んでいるらしいとアイスが言っていた。
その情報に、結はホッと胸をなでおろしていた。ほぼ毎夜のようにどこかに連れ出されていたことが珍しかっただけで、タワンの立場からすればこの状態のほうが自然なんだろう。
そのまま忙しさにかまけて姿をくらましてほしい、なんて我ながら薄情なことを半ば本気で思った。
アメリカ人家族がツリーの前で写真を撮っている。年末に向かってワクワクした雰囲気は、日本もタイも同じだ。けれど大きく違うのはやっぱり気温だろう。アメリカ人のお父さんはアロハシャツに短パン姿。奥さんと娘たちは土産物屋でよく売っているゾウの柄のワンピースを着ていた。年中常夏のタイで、極寒の国から来た人たちは、カムバック・サマーを喜んで味わっている。
なんか私も焼けた気がするな。
エレベーターの中、結は中華系タイ人夫婦のトランクを両手に持ったまま鏡に映る自分の顔を見た。焼けたし、少し太った気もする。太った、というか、前に戻ったかんじ。日本を発つ頃は、もっとゲッソリしていたと思う。
タワンに連れられて色んなホテルディナーに行く以上、食べ物を残すことはできない。最初は義務のようにフォークを口に運んでいたコース料理は、だんだんと自然に平らげることができるようになった。なにより、ロビーと客室を大荷物を抱えて行ったり来たりしてるから、運動になる。動けばおなかもへる。結果、前のような食欲が戻っていた。
まさかそんなことまで考えて、ここに配置したわけじゃないだろうけど。
荷物を部屋に届けて再びエレベーターに乗ると、下降したエレベーターは十七階で止まった。スッと扉が開いた先に、
「…………あ」
ぎく、と体が強張る。相手も驚いたようで、かち合った目が一瞬見開かれた。
ふわり。その直後に乗り込んだ相手は――タワンは結に笑いかける。
「やぁ」
ティン。扉が閉まって、エレベーターは下降をはじめる。業者が定期点検を欠かさないホテルのエレベーターは、ささやかな音も立てず沈黙を保つ。
「お久しぶりです」
なんと言っていいかわからず、顔を正面に向けたまま言った。同じところで働いていて、久しぶり、というのもおかしいんだけれど。実際に、多忙を極める彼と顔を合わせるのは久しぶりだった。
くす、と小さく笑う気配。
「たしかにそうだね」
声につられて後ろを振り返った。少し伸びた前髪を今日は後ろに流して固めていて、その姿がスーツによく似合っている。胸元の蝶ネクタイはいつもの通り寸分のズレもない。
「ユイ」
下降してるエレベーターがあと少しでグランドフロアに着く、その寸前で低い声が名前を呼んだ。少し肩が、揺れた。
おそるおそる振り返ると、
「久しぶりに、今夜はデートしよう」
深い黒目が顔を、予想よりはるか近くで顔を覗きこんでいた。あまりに近いせいで、自分のとまどったような、怖気づいたような顔がタワンのきれいな目に映っているのがわかっていたたまれなくなる。
デート。
もう仕事、とは言われないその誘いをどう受け取って良いかわからず、温度が上がっていく頬や首筋を持て余す。
日焼けしていてよかった。少しは肌の火照りがごまかせるんじゃないの、なんて自棄気味にそんなことを思う。
「じゃあ、今日も一日頑張って」
そう言うと、ふっと笑って開いたエレベーターの扉をくぐり抜けていった。すっと背筋の伸びた後ろ姿を呆然と見送る。なんか言ってやりたい、そう思うのにかまけてうっかり閉まりかけた扉を、慌ててもう一度開いた。
うー、と薄く開いた唇から呻き声。
どうして私ばかりジタバタしてるんだろう。
タワンは以前と変わらない。結を押し倒したとき見せたような、こちらが泣きたくなるような顔で結を見ることはない。
ふしぎなひとだ、と思う。紳士のように穏やかで朗らかな人だと思ったらそんなことなくて、強引で、そのくせあんな、縋りつくような顔で見つめてきたりする。
タワンという人を、自分の心のどの位置に置いておけばいいのか、もうわからなくなっている。少し前まで友だちと上司の間の、とても心地のいい場所にいたのに。
友だちじゃない。恋人でもない。
そもそも、好きですらない。
と思う。
「と思うってなに」
低く呻いて、息を吐き出す。自分の心なのに、自分でもわからなかった。だけど気づかない部分は、そのまま濁しておきたいと願う自分もいる。
臆病者だと言われてもいい。
指定された荷物を客室に送り届けるような、わかりやすくて単純なことだけで周囲を囲ってしまいたかった。
サワン・ファー・ホテルも例外じゃない。ロビーには薄水色の大きなツリーが飾られ、ロビーにはエンドレンスでホリデー・ソングが流れている。厨房の料理長はガラディナーと呼ばれる年末オリジナルメニューの内容を発表した。タワンは以前にも増して忙しそうで、あまりロビーで見ることもなかった。イベント企画部のチーフと経理総務のチーフがひっきりなしにタワンを追いかけては、事務所スペースの会議室に押し込んでいるらしいとアイスが言っていた。
その情報に、結はホッと胸をなでおろしていた。ほぼ毎夜のようにどこかに連れ出されていたことが珍しかっただけで、タワンの立場からすればこの状態のほうが自然なんだろう。
そのまま忙しさにかまけて姿をくらましてほしい、なんて我ながら薄情なことを半ば本気で思った。
アメリカ人家族がツリーの前で写真を撮っている。年末に向かってワクワクした雰囲気は、日本もタイも同じだ。けれど大きく違うのはやっぱり気温だろう。アメリカ人のお父さんはアロハシャツに短パン姿。奥さんと娘たちは土産物屋でよく売っているゾウの柄のワンピースを着ていた。年中常夏のタイで、極寒の国から来た人たちは、カムバック・サマーを喜んで味わっている。
なんか私も焼けた気がするな。
エレベーターの中、結は中華系タイ人夫婦のトランクを両手に持ったまま鏡に映る自分の顔を見た。焼けたし、少し太った気もする。太った、というか、前に戻ったかんじ。日本を発つ頃は、もっとゲッソリしていたと思う。
タワンに連れられて色んなホテルディナーに行く以上、食べ物を残すことはできない。最初は義務のようにフォークを口に運んでいたコース料理は、だんだんと自然に平らげることができるようになった。なにより、ロビーと客室を大荷物を抱えて行ったり来たりしてるから、運動になる。動けばおなかもへる。結果、前のような食欲が戻っていた。
まさかそんなことまで考えて、ここに配置したわけじゃないだろうけど。
荷物を部屋に届けて再びエレベーターに乗ると、下降したエレベーターは十七階で止まった。スッと扉が開いた先に、
「…………あ」
ぎく、と体が強張る。相手も驚いたようで、かち合った目が一瞬見開かれた。
ふわり。その直後に乗り込んだ相手は――タワンは結に笑いかける。
「やぁ」
ティン。扉が閉まって、エレベーターは下降をはじめる。業者が定期点検を欠かさないホテルのエレベーターは、ささやかな音も立てず沈黙を保つ。
「お久しぶりです」
なんと言っていいかわからず、顔を正面に向けたまま言った。同じところで働いていて、久しぶり、というのもおかしいんだけれど。実際に、多忙を極める彼と顔を合わせるのは久しぶりだった。
くす、と小さく笑う気配。
「たしかにそうだね」
声につられて後ろを振り返った。少し伸びた前髪を今日は後ろに流して固めていて、その姿がスーツによく似合っている。胸元の蝶ネクタイはいつもの通り寸分のズレもない。
「ユイ」
下降してるエレベーターがあと少しでグランドフロアに着く、その寸前で低い声が名前を呼んだ。少し肩が、揺れた。
おそるおそる振り返ると、
「久しぶりに、今夜はデートしよう」
深い黒目が顔を、予想よりはるか近くで顔を覗きこんでいた。あまりに近いせいで、自分のとまどったような、怖気づいたような顔がタワンのきれいな目に映っているのがわかっていたたまれなくなる。
デート。
もう仕事、とは言われないその誘いをどう受け取って良いかわからず、温度が上がっていく頬や首筋を持て余す。
日焼けしていてよかった。少しは肌の火照りがごまかせるんじゃないの、なんて自棄気味にそんなことを思う。
「じゃあ、今日も一日頑張って」
そう言うと、ふっと笑って開いたエレベーターの扉をくぐり抜けていった。すっと背筋の伸びた後ろ姿を呆然と見送る。なんか言ってやりたい、そう思うのにかまけてうっかり閉まりかけた扉を、慌ててもう一度開いた。
うー、と薄く開いた唇から呻き声。
どうして私ばかりジタバタしてるんだろう。
タワンは以前と変わらない。結を押し倒したとき見せたような、こちらが泣きたくなるような顔で結を見ることはない。
ふしぎなひとだ、と思う。紳士のように穏やかで朗らかな人だと思ったらそんなことなくて、強引で、そのくせあんな、縋りつくような顔で見つめてきたりする。
タワンという人を、自分の心のどの位置に置いておけばいいのか、もうわからなくなっている。少し前まで友だちと上司の間の、とても心地のいい場所にいたのに。
友だちじゃない。恋人でもない。
そもそも、好きですらない。
と思う。
「と思うってなに」
低く呻いて、息を吐き出す。自分の心なのに、自分でもわからなかった。だけど気づかない部分は、そのまま濁しておきたいと願う自分もいる。
臆病者だと言われてもいい。
指定された荷物を客室に送り届けるような、わかりやすくて単純なことだけで周囲を囲ってしまいたかった。