恋するバンコク
再会
ごくんと唾を飲みこむと、結はおもいきって言った。
「ねぇ、私も入れて」
スカートを握る小さな手は緊張で冷たくなっている。
アッシャーとノアは顔を見合わせて、口をへの字に曲げてもじもじと体を揺らした。
「やだよ」
高い子どもの声が、結の胸をビクンとゆらす。泣きそうになって、そう悟られたくなくて、男の子たちを睨みつけた。
「どうしてよ」
ノアが足元のボールをつま先で蹴りながら小さな声で答える。
「だってユイ、フットボールへたくそじゃん」
アッシャーも続ける。
「それに、その服じゃ遊べないよ。ママが言ってた。女の子の服を汚しちゃいけないんだって」
「この前遊んだとき、僕とアッシュ、ママに怒られたんだもん」
なぁ、と兄弟は頷き合う。結は自分が握りしめているスカートを見下ろした。ふわ、と裾がフレアになっている赤いスカート。この間母親がデパートで買ってきた、タラート(市場)で買うより千バーツ以上高い服。
結はプン、とそっぽを向いた。首を反らして、できるだけツンとすまして言う。
「もういいよ。男の子となんて一緒に遊ばないから」
その言葉に兄弟たちがホッとしたことが気配でわかった。いよいよ泣きそうになって、急いで庭を横切る。
そのままコンドミニアムを出て、塀にもたれかかってしゃがみこんだ。途端に、ぶわりと涙がこみ上げる。
男の子ってずるい。
服が汚れても怒られないし、力も強くて、足も速い。一緒に遊ぶには、ハードルの高い相手だ。
ずるい、ずるい。
「……っぅ、ひぃっ」
両目をこすってしゃくり上げる。拭っても拭っても、熱い涙が押し寄せてくる。
声がかかったのはそのときだった。
「ペンヤンガイ?(どうしたの?)」
高く澄んだ声。
顔を上げると、小さな女の子が一人、立っていた。少し色あせたキティーの絵が描かれたタンクトップとショートパンツの裾から伸びる、小枝のように細い手足。褐色の肌に、小鹿のように丸い大きな目が嵌っている。
「……だれ?」
泣きはらした赤い目で尋ねると、その子はニッコリ笑って名前を告げた。ちょこんと首を傾げた時、肩まで伸びた髪がサラリと揺れた。結と同じくらい長い髪が、光を浴びてツヤツヤと光っている。
女の子だ。
結の胸が、期待をこめてトクリと鳴る。
「わ、たし、ユイっていうの」
おもわずその小さな手を掴んだ。女の子は少し驚いたように目を見張って、それからニコリと微笑んだ。
「ユイ、お友だちになってくれる?」
そう言ったのは彼女の方だった。結は嬉しくて、握る手に力をこめて言った。
「ねぇ、ヨウって呼んでもいい?」
ノアがアッシャーをアッシュと呼んでるように、結も友だちをあだ名で呼んでみたかった。ヨウは頷いて、また小さく首を傾げた。
「どうしてヨウなの?」
結は胸を張って、友だちに伝えた。
「それはね――」
ピピピピピ。
目覚ましのアラームが静かな空間に鳴り響く。結はぼんやりと天井を見上げた。遮光カーテンが塞ぐ室内は暗く、起きぬけはいつも何時なのかわからない。視線だけを横に向けると、隣のベッドではスーがブランケットを体に巻きつけて寝息をたてていた。
腕を伸ばしてアラームを切ると、ゆっくりと目を閉じて息を吐いた。今見た夢を反芻する。
ヨウちゃん。
久しぶりに夢を見た。おぼろげな顔は夢ではふしぎなほどクリアに映っていて、それなのにこうやって起きてしまうとやっぱりその顔は水面に映る月のようにぼやりと滲む。
タイに来る前、少しだけ期待した。もしかして、この場所に来れば会えるんじゃないかって。
だけど思い出のつまったコンドミニアムは潰れて高級ホテルになっていた。彼女と自分を繋ぐものはなにもない。残されたのは、ひとつのペンダントだけ。
ベッド脇の机に置いたペンダントに手を伸ばす。ひやりとしたさわり心地に、体に溜まっている眠気が撹拌されていく。
ヨウちゃん、今どこにいるんだろう。お手伝いさんの娘だったから、彼女も同じような仕事をしてるんだろうか。
私の、ファーストキスの相手なんだよね。
そう心の内で呟いて、なんだかほほえましい気もちになる。
キス。
その単語で、思い出したくない光景が頭の中に浮かび上がった。
全くほほえましくない、強引なキス。絡められた舌。どこか苦しそうな顔。
わかってないんだ。どれだけ僕が君のことが好きなのか
ぐん、と勢い良く横を向く。枕に顔を押し付けて、ぎゅっと目を閉じた。
なんだって、あんな人と会ってしまったんだろう。紳士だと思ってたら、とんでもない。強引で傲慢な男。
それなのにやっぱり、とても優しい。
閉じた目に力をこめる。
だめだ。そんなこと考え始めたら、なにに捕まってしまうか本当はもう、わかってる。
考えるな、と強く命じる。
ダメなんだから。
顔を起こして、壁際のクローゼットを見据える。クローゼットに仕舞われたトランクケース。その内ポケットに入ったままのパスポートを思い浮かべて目を細めた。
なにが起きたって、ここには一ヶ月しかいられない。帰る場所が決まってるのに、なにかを感じるなんて馬鹿げてる。
ぎゅっと閉じた目に手の甲を乗せた。そこはびっくりするくらい熱くなっていて、結は唇をかみしめた。
「サワディーカー、ユイ」
タワンがそう言ってふわりと笑う。その顔に、結の隣でガイドブックを覗き込んでいた女の子たちがキャッと顔を見合わせた。東京から遊びに来たという三人組に、日本語が通じるスパの場所を教えている最中だった。
「すっごいイケメン」
ね、写真撮ってもらおーよ、と言い合う高い声に心の中でなにかがモゾリと動く。タワンは知ってか知らずか、彼女たちに白い歯を見せて笑いかける。
「なにかお困りのことがあれば、遠慮なくご相談くださいね」
流暢な日本語で話す彼に、女の子たちがまた騒ぐ。そのうちの一人が結の持っていたガイドブックを奪うように取って、タワンの前にページを広げた。
「ここ行きたいんですけどぉ」
タワンは嫌な顔ひとつせず、ニコリと笑って頷いた。彼女たちに目線を合わせるようにかがみこむと、
「こちらであれば、予約を取ったほうが良いでしょうね。よろしければこちらからお電話しましょうか?」
お願いしますー! と女の子たちはタワンを取り囲む。ガイドブックを奪っていった子がタワンの隣に立ち、
「一緒に写真とってもいいですかぁ」
とタワンの腕に腕を絡ませる。
「撮りましょうか?」
結が申し出ると、
「あ大丈夫です~! 自分で撮るんで」
自撮りモードを選択し、もっとこっち~、と身を寄せる。誰かに撮ってもらうより、自撮りのほうが密着度は高い。そういうことか、と冷めた気もちでスマホの撮影音を聞く。
タワンは笑みを絶やさず、ほか二人の女の子とも撮影に応じる。眼前でくり広げられる撮影大会を前に、去ることもできずにぼんやりと佇む。カシャッ。スマホの音がやけにうるさい。
「日本語上手なんですね~」
彼女たちはなかなかタワンを解放しようとしない。それに比例して結の心の内にザワザワとしたざわめきが広がっていく。口角が下がらないように、ことさら笑顔を意識した。
「どうしても話したくて、勉強したんです」
「えーすごーい!」
終わらない会話に疲れを感じて、結はふっと目をそらしてロビーを見た。アラブ人の夫婦がチェックインをしている。エレベーターから降りてきた欧米人のカップル。ソファに座って庭をながめているアジア系の老人と、その周りを走り回る小さな子どもたち。クリスマスソングが流れるロビーは穏やかな空気に包まれている。
女の子たちの甲高い声がやけに尖って聞こえるのは、きっとだから、気のせいなのに。
ぼんやりとあたりを見ていると、ドアマンが出入り口の扉を引いてお客を出迎えた。
新しいお客さんだ。仕事だ。
この場を自然に離れられることにホッとして、歩み寄る。女の子たちのはしゃぐ声を、自分のヒールの音でかき消すように胸を張って歩きはじめたところで。
カツン。
足が止まる。
「結?」
後ろの方から、タワンの声が聞こえた。けれどそれはすうっと体を通り過ぎて意識に残らない。
声に反応したのは別の人物だった。トランクケースを片手に立ち止まる、そのひと。
「――――結?」
すべての音が消えた。
談笑するお客たちの姿も、すぐ脇に立つドアマンの姿も見えない。
笑顔が溶けて消えるのがわかる。ただ相手を見ていた。
たかし。
喉の奥が言葉をつぶやく。フロアの真ん中で、結は立ったまま動けなかった。
「ねぇ、私も入れて」
スカートを握る小さな手は緊張で冷たくなっている。
アッシャーとノアは顔を見合わせて、口をへの字に曲げてもじもじと体を揺らした。
「やだよ」
高い子どもの声が、結の胸をビクンとゆらす。泣きそうになって、そう悟られたくなくて、男の子たちを睨みつけた。
「どうしてよ」
ノアが足元のボールをつま先で蹴りながら小さな声で答える。
「だってユイ、フットボールへたくそじゃん」
アッシャーも続ける。
「それに、その服じゃ遊べないよ。ママが言ってた。女の子の服を汚しちゃいけないんだって」
「この前遊んだとき、僕とアッシュ、ママに怒られたんだもん」
なぁ、と兄弟は頷き合う。結は自分が握りしめているスカートを見下ろした。ふわ、と裾がフレアになっている赤いスカート。この間母親がデパートで買ってきた、タラート(市場)で買うより千バーツ以上高い服。
結はプン、とそっぽを向いた。首を反らして、できるだけツンとすまして言う。
「もういいよ。男の子となんて一緒に遊ばないから」
その言葉に兄弟たちがホッとしたことが気配でわかった。いよいよ泣きそうになって、急いで庭を横切る。
そのままコンドミニアムを出て、塀にもたれかかってしゃがみこんだ。途端に、ぶわりと涙がこみ上げる。
男の子ってずるい。
服が汚れても怒られないし、力も強くて、足も速い。一緒に遊ぶには、ハードルの高い相手だ。
ずるい、ずるい。
「……っぅ、ひぃっ」
両目をこすってしゃくり上げる。拭っても拭っても、熱い涙が押し寄せてくる。
声がかかったのはそのときだった。
「ペンヤンガイ?(どうしたの?)」
高く澄んだ声。
顔を上げると、小さな女の子が一人、立っていた。少し色あせたキティーの絵が描かれたタンクトップとショートパンツの裾から伸びる、小枝のように細い手足。褐色の肌に、小鹿のように丸い大きな目が嵌っている。
「……だれ?」
泣きはらした赤い目で尋ねると、その子はニッコリ笑って名前を告げた。ちょこんと首を傾げた時、肩まで伸びた髪がサラリと揺れた。結と同じくらい長い髪が、光を浴びてツヤツヤと光っている。
女の子だ。
結の胸が、期待をこめてトクリと鳴る。
「わ、たし、ユイっていうの」
おもわずその小さな手を掴んだ。女の子は少し驚いたように目を見張って、それからニコリと微笑んだ。
「ユイ、お友だちになってくれる?」
そう言ったのは彼女の方だった。結は嬉しくて、握る手に力をこめて言った。
「ねぇ、ヨウって呼んでもいい?」
ノアがアッシャーをアッシュと呼んでるように、結も友だちをあだ名で呼んでみたかった。ヨウは頷いて、また小さく首を傾げた。
「どうしてヨウなの?」
結は胸を張って、友だちに伝えた。
「それはね――」
ピピピピピ。
目覚ましのアラームが静かな空間に鳴り響く。結はぼんやりと天井を見上げた。遮光カーテンが塞ぐ室内は暗く、起きぬけはいつも何時なのかわからない。視線だけを横に向けると、隣のベッドではスーがブランケットを体に巻きつけて寝息をたてていた。
腕を伸ばしてアラームを切ると、ゆっくりと目を閉じて息を吐いた。今見た夢を反芻する。
ヨウちゃん。
久しぶりに夢を見た。おぼろげな顔は夢ではふしぎなほどクリアに映っていて、それなのにこうやって起きてしまうとやっぱりその顔は水面に映る月のようにぼやりと滲む。
タイに来る前、少しだけ期待した。もしかして、この場所に来れば会えるんじゃないかって。
だけど思い出のつまったコンドミニアムは潰れて高級ホテルになっていた。彼女と自分を繋ぐものはなにもない。残されたのは、ひとつのペンダントだけ。
ベッド脇の机に置いたペンダントに手を伸ばす。ひやりとしたさわり心地に、体に溜まっている眠気が撹拌されていく。
ヨウちゃん、今どこにいるんだろう。お手伝いさんの娘だったから、彼女も同じような仕事をしてるんだろうか。
私の、ファーストキスの相手なんだよね。
そう心の内で呟いて、なんだかほほえましい気もちになる。
キス。
その単語で、思い出したくない光景が頭の中に浮かび上がった。
全くほほえましくない、強引なキス。絡められた舌。どこか苦しそうな顔。
わかってないんだ。どれだけ僕が君のことが好きなのか
ぐん、と勢い良く横を向く。枕に顔を押し付けて、ぎゅっと目を閉じた。
なんだって、あんな人と会ってしまったんだろう。紳士だと思ってたら、とんでもない。強引で傲慢な男。
それなのにやっぱり、とても優しい。
閉じた目に力をこめる。
だめだ。そんなこと考え始めたら、なにに捕まってしまうか本当はもう、わかってる。
考えるな、と強く命じる。
ダメなんだから。
顔を起こして、壁際のクローゼットを見据える。クローゼットに仕舞われたトランクケース。その内ポケットに入ったままのパスポートを思い浮かべて目を細めた。
なにが起きたって、ここには一ヶ月しかいられない。帰る場所が決まってるのに、なにかを感じるなんて馬鹿げてる。
ぎゅっと閉じた目に手の甲を乗せた。そこはびっくりするくらい熱くなっていて、結は唇をかみしめた。
「サワディーカー、ユイ」
タワンがそう言ってふわりと笑う。その顔に、結の隣でガイドブックを覗き込んでいた女の子たちがキャッと顔を見合わせた。東京から遊びに来たという三人組に、日本語が通じるスパの場所を教えている最中だった。
「すっごいイケメン」
ね、写真撮ってもらおーよ、と言い合う高い声に心の中でなにかがモゾリと動く。タワンは知ってか知らずか、彼女たちに白い歯を見せて笑いかける。
「なにかお困りのことがあれば、遠慮なくご相談くださいね」
流暢な日本語で話す彼に、女の子たちがまた騒ぐ。そのうちの一人が結の持っていたガイドブックを奪うように取って、タワンの前にページを広げた。
「ここ行きたいんですけどぉ」
タワンは嫌な顔ひとつせず、ニコリと笑って頷いた。彼女たちに目線を合わせるようにかがみこむと、
「こちらであれば、予約を取ったほうが良いでしょうね。よろしければこちらからお電話しましょうか?」
お願いしますー! と女の子たちはタワンを取り囲む。ガイドブックを奪っていった子がタワンの隣に立ち、
「一緒に写真とってもいいですかぁ」
とタワンの腕に腕を絡ませる。
「撮りましょうか?」
結が申し出ると、
「あ大丈夫です~! 自分で撮るんで」
自撮りモードを選択し、もっとこっち~、と身を寄せる。誰かに撮ってもらうより、自撮りのほうが密着度は高い。そういうことか、と冷めた気もちでスマホの撮影音を聞く。
タワンは笑みを絶やさず、ほか二人の女の子とも撮影に応じる。眼前でくり広げられる撮影大会を前に、去ることもできずにぼんやりと佇む。カシャッ。スマホの音がやけにうるさい。
「日本語上手なんですね~」
彼女たちはなかなかタワンを解放しようとしない。それに比例して結の心の内にザワザワとしたざわめきが広がっていく。口角が下がらないように、ことさら笑顔を意識した。
「どうしても話したくて、勉強したんです」
「えーすごーい!」
終わらない会話に疲れを感じて、結はふっと目をそらしてロビーを見た。アラブ人の夫婦がチェックインをしている。エレベーターから降りてきた欧米人のカップル。ソファに座って庭をながめているアジア系の老人と、その周りを走り回る小さな子どもたち。クリスマスソングが流れるロビーは穏やかな空気に包まれている。
女の子たちの甲高い声がやけに尖って聞こえるのは、きっとだから、気のせいなのに。
ぼんやりとあたりを見ていると、ドアマンが出入り口の扉を引いてお客を出迎えた。
新しいお客さんだ。仕事だ。
この場を自然に離れられることにホッとして、歩み寄る。女の子たちのはしゃぐ声を、自分のヒールの音でかき消すように胸を張って歩きはじめたところで。
カツン。
足が止まる。
「結?」
後ろの方から、タワンの声が聞こえた。けれどそれはすうっと体を通り過ぎて意識に残らない。
声に反応したのは別の人物だった。トランクケースを片手に立ち止まる、そのひと。
「――――結?」
すべての音が消えた。
談笑するお客たちの姿も、すぐ脇に立つドアマンの姿も見えない。
笑顔が溶けて消えるのがわかる。ただ相手を見ていた。
たかし。
喉の奥が言葉をつぶやく。フロアの真ん中で、結は立ったまま動けなかった。