恋するバンコク
ゆい?
低い声が、そのくせどこか甘さがあるように聞こえるのは、一語一語を独特の柔らかさで話すからだ、と思う。
まろやかで柔らかな語調は、それだけでなんとなく品を感じさせる。取引先にプレゼンしている場にお茶汲みに行ったことが何度かあったけど、穏やかな話し声はどこか眠気を誘っているようで、ちゃんと聞いてもらってるの、なんて言って冗談にしたこともあった。
「え、結さん?」
高志の後ろから、高い声が聞こえた。視線だけを移動させる。
「ほんとに結さんなのね」
栗色に染めた胸元までの髪はゆるいパーマがかかっていて、白い肌によく似合っている。長い睫毛に縁取られた目の虹彩は、生粋の日本人のはずなのに茶色がかかっていて愛らしい。受付の子がかわいいから商談がうまくいくよなんて、部長がよく言ってたっけ。あれは彼女に対するゴマすりばかりでもない。たしかにとてもかわいい子だった。
「……瞳さん」
結の会社の受付嬢にして、社長令嬢。そして高志の。
ずん、と重石でも乗せられたように胸が苦しくなる。
なんで二人はこんなところにいるの? 抑えきれない混乱に、唇の端がひくひくと震える。
瞳は高志のすぐ後ろから、興味津々といった顔で結の全身を眺めている。口元を片手で抑えて、その薬指に宝石の嵌った指輪が光っていた。その指輪を見て、燻っていたなにかにとどめが刺された気がした。
婚約者なんだ、ほんとに。
本当に、高志は結婚するんだ。
「結さんここで働いてるの? 会社辞めたのって、それが原因なの?」
いきなりだったから驚いたのよと、在職当時めったに話すことのなかった結にも気安い口調で言う。そんなに人なつこいタイプ、という印象はない。結婚間近という事実が、彼女をいつもより無邪気にさせているんだろうか。
というか、どういうこと? なんで二人はここにいるの?
のろのろと視線を高志に戻す。高志はまだ驚きが覚めない顔で結を見ている。二人が結を追いかけてきたという最悪の想像ははずれそうだ。よかった、と全く喜んでない胸のうちに思う。
瞳はリゾート風のカラフルなワンピースを着ていたけど、高志は半そでシャツにノーネクタイで、下はパンツスーツだった。一見ふしぎな取り合わせを、代弁するように瞳が嬉しそうに笑った。
「彼の出張に連いてきちゃったの」
そんなことがまかり通るなんて、社長令嬢のカードは一体どれほど強いんだろう。自分には到底叶わないものを見せつけられた気がして、体の内側がますます重く、固くなる。
「いらっしゃいませ」
ふいに隣から声が聞こえた。柔らかく低い声。結より一歩前に出て胸の前で両手を合わせる、黒いスーツの後ろ姿。ガラス扉から漏れ出る陽光が、そのシルエットを発光させるように縁取った。
――タワン。
喉の奥で固まっていた息を長く吐いた。全身に張り詰めていた緊張がぬけていくのを感じる。
「お荷物お持ちいたします」
タワンが片手で高志の脇にあるトランクケースを持ち、カウンターを手で示した。
「それにしても、びっくりしたわ」
歩き出す高志の後ろで足を止めて、瞳は結に向かって言った。
「このホテルに決めたのはね、この間テレビで紹介されたのを見たからなの。素敵なホテルだったから、どうしても来てみたくなって」
ね、と立ち止まる高志を振り返って続ける。
「ここで働いてる日本人って、あれは結さんのことだったのね」
顔が映ってなかったから気づかなかったわ、と興奮する瞳の声に、おもわず拳を握った。
取材を受けたことなんて、すっかり忘れていた。
このホテルのすてきなところが伝わればいいと思った。
だけどその映像を見てこんな「お客様」が来ることになるなんて。
まぬけすぎて、笑うこともできない。
「あの、まずいんじゃないですか?」
それまで黙っていた高志が言った。顔を上げると、高志は笑いもせず、厳しい眼差しをタワンに向けていた。
「彼女は労働ビザなんて持ってないはずだ。不当に働かされて、もしバレたらどうなると思うんです」
……高志?
思ってもみなかった発言に驚いたのは瞳も同じだったようだ。目を丸くして高志を見ている。
高志のどこか険を含む表情を受けても、タワンは相変わらず穏やかな顔で立っている。
「ご心配ありがとうございます。彼女はお手伝いをしてくれているだけですので」
深くは話さず、けれどそれ以上の詮索を許さない笑顔でタワンは答えた。高志は開きかけた口を噤み、けれどその眉間に刻まれた皺は、納得がいってないことを表わしている。
結は元恋人の意図がわからず心が騒めくのを感じた。高志の詮索を、どう受け取ればいいのかわからない。
高志が心配してくれてるかもしれないとか、そんなこと思うだけでも最悪だ。もうこれ以上かき乱されたくなかった。
屈託なく婚約を発表して、その後一度も連絡を寄越さなかった。そんな男に対して新しいなにかを発見することを、自分に許したくない。
それまではしゃいでいた瞳は高志をじっと見ていた。笑顔は消え、ゆっくりと結を振り返る。まるで、はじめてその存在に気がついたというように。
「ユイ」
名前を呼ばれ、振り返った。タワンが口元に笑みを浮かべて――けれど目はひやりと、どこか怒りを湛えたような顔ですぐ隣に立つ。
「ここはもういいから、あっちへ行って」
命じられ、ぎこちなく頷く。目を合わせず形ばかりの礼をし、逃げるようにきびすを返した。
バックヤードに入るやいなや、大きな息を吐いた。
ぎゅっと目を閉じて胸に手をあてる。服の下にしまいこんだペンダントを服越しに探った。
ヨウちゃん。
今朝見た夢を思い出す。泣いてる結のところに現れた親友。
またあんなふうに颯爽と現れてくれたらいいのに。
震える息をもう一度吐いて、自分の両腕を固く抱きしめた。
低い声が、そのくせどこか甘さがあるように聞こえるのは、一語一語を独特の柔らかさで話すからだ、と思う。
まろやかで柔らかな語調は、それだけでなんとなく品を感じさせる。取引先にプレゼンしている場にお茶汲みに行ったことが何度かあったけど、穏やかな話し声はどこか眠気を誘っているようで、ちゃんと聞いてもらってるの、なんて言って冗談にしたこともあった。
「え、結さん?」
高志の後ろから、高い声が聞こえた。視線だけを移動させる。
「ほんとに結さんなのね」
栗色に染めた胸元までの髪はゆるいパーマがかかっていて、白い肌によく似合っている。長い睫毛に縁取られた目の虹彩は、生粋の日本人のはずなのに茶色がかかっていて愛らしい。受付の子がかわいいから商談がうまくいくよなんて、部長がよく言ってたっけ。あれは彼女に対するゴマすりばかりでもない。たしかにとてもかわいい子だった。
「……瞳さん」
結の会社の受付嬢にして、社長令嬢。そして高志の。
ずん、と重石でも乗せられたように胸が苦しくなる。
なんで二人はこんなところにいるの? 抑えきれない混乱に、唇の端がひくひくと震える。
瞳は高志のすぐ後ろから、興味津々といった顔で結の全身を眺めている。口元を片手で抑えて、その薬指に宝石の嵌った指輪が光っていた。その指輪を見て、燻っていたなにかにとどめが刺された気がした。
婚約者なんだ、ほんとに。
本当に、高志は結婚するんだ。
「結さんここで働いてるの? 会社辞めたのって、それが原因なの?」
いきなりだったから驚いたのよと、在職当時めったに話すことのなかった結にも気安い口調で言う。そんなに人なつこいタイプ、という印象はない。結婚間近という事実が、彼女をいつもより無邪気にさせているんだろうか。
というか、どういうこと? なんで二人はここにいるの?
のろのろと視線を高志に戻す。高志はまだ驚きが覚めない顔で結を見ている。二人が結を追いかけてきたという最悪の想像ははずれそうだ。よかった、と全く喜んでない胸のうちに思う。
瞳はリゾート風のカラフルなワンピースを着ていたけど、高志は半そでシャツにノーネクタイで、下はパンツスーツだった。一見ふしぎな取り合わせを、代弁するように瞳が嬉しそうに笑った。
「彼の出張に連いてきちゃったの」
そんなことがまかり通るなんて、社長令嬢のカードは一体どれほど強いんだろう。自分には到底叶わないものを見せつけられた気がして、体の内側がますます重く、固くなる。
「いらっしゃいませ」
ふいに隣から声が聞こえた。柔らかく低い声。結より一歩前に出て胸の前で両手を合わせる、黒いスーツの後ろ姿。ガラス扉から漏れ出る陽光が、そのシルエットを発光させるように縁取った。
――タワン。
喉の奥で固まっていた息を長く吐いた。全身に張り詰めていた緊張がぬけていくのを感じる。
「お荷物お持ちいたします」
タワンが片手で高志の脇にあるトランクケースを持ち、カウンターを手で示した。
「それにしても、びっくりしたわ」
歩き出す高志の後ろで足を止めて、瞳は結に向かって言った。
「このホテルに決めたのはね、この間テレビで紹介されたのを見たからなの。素敵なホテルだったから、どうしても来てみたくなって」
ね、と立ち止まる高志を振り返って続ける。
「ここで働いてる日本人って、あれは結さんのことだったのね」
顔が映ってなかったから気づかなかったわ、と興奮する瞳の声に、おもわず拳を握った。
取材を受けたことなんて、すっかり忘れていた。
このホテルのすてきなところが伝わればいいと思った。
だけどその映像を見てこんな「お客様」が来ることになるなんて。
まぬけすぎて、笑うこともできない。
「あの、まずいんじゃないですか?」
それまで黙っていた高志が言った。顔を上げると、高志は笑いもせず、厳しい眼差しをタワンに向けていた。
「彼女は労働ビザなんて持ってないはずだ。不当に働かされて、もしバレたらどうなると思うんです」
……高志?
思ってもみなかった発言に驚いたのは瞳も同じだったようだ。目を丸くして高志を見ている。
高志のどこか険を含む表情を受けても、タワンは相変わらず穏やかな顔で立っている。
「ご心配ありがとうございます。彼女はお手伝いをしてくれているだけですので」
深くは話さず、けれどそれ以上の詮索を許さない笑顔でタワンは答えた。高志は開きかけた口を噤み、けれどその眉間に刻まれた皺は、納得がいってないことを表わしている。
結は元恋人の意図がわからず心が騒めくのを感じた。高志の詮索を、どう受け取ればいいのかわからない。
高志が心配してくれてるかもしれないとか、そんなこと思うだけでも最悪だ。もうこれ以上かき乱されたくなかった。
屈託なく婚約を発表して、その後一度も連絡を寄越さなかった。そんな男に対して新しいなにかを発見することを、自分に許したくない。
それまではしゃいでいた瞳は高志をじっと見ていた。笑顔は消え、ゆっくりと結を振り返る。まるで、はじめてその存在に気がついたというように。
「ユイ」
名前を呼ばれ、振り返った。タワンが口元に笑みを浮かべて――けれど目はひやりと、どこか怒りを湛えたような顔ですぐ隣に立つ。
「ここはもういいから、あっちへ行って」
命じられ、ぎこちなく頷く。目を合わせず形ばかりの礼をし、逃げるようにきびすを返した。
バックヤードに入るやいなや、大きな息を吐いた。
ぎゅっと目を閉じて胸に手をあてる。服の下にしまいこんだペンダントを服越しに探った。
ヨウちゃん。
今朝見た夢を思い出す。泣いてる結のところに現れた親友。
またあんなふうに颯爽と現れてくれたらいいのに。
震える息をもう一度吐いて、自分の両腕を固く抱きしめた。