恋するバンコク
 一時間で帰るといったことを、死ぬほど後悔してる。タワンは低く呻くようにそう言った。結を強く抱きしめながら。
「……タワン」
 タワンの胸と腕の間から顔を出して、結はそっと名前を呼ぶ。間近に整った顔を見て、それ以上なにを言ったらいいかわからず再び額を胸に押し当てるように俯いた。
 まだ混乱していた。
 ヨウがタワンだと理解して、だけど心はバタバタと慌てたまま、なにかを具体的に考えることができないでいる。
 なんとなく流されるようにキスしてしまった。
 タワンからは何度も気もちを告げられた。のに、自分は未だになにも返してない。
 それなのに、
「ユイ」
 声に顔を上げれば、また唇が降りてきて結は目を閉じた。
 ドキドキと体が震える。
 もう何度こうしただろう。
 厚い唇が結の唇を食んで、手が髪を優しく撫でる。目が合うと、今していることを確認されているようで、恥ずかしい。うっそうとした甘い息苦しさに耐えきれず顔を背けた結に、タワンがくすりと笑った。
「あー戻りたくないな」
 軽い調子は、けれど本心が滲んでいる。耳のすぐ近くで聞こえる声とその内容に、心が甘く痺れた。
 
 ほんとうに、どうにかしないと。こんなふうに流されていては、いけないのに。
 そう思う一方で、駄々をこねる子どものような、いつもより幼いタワンの言い方にふっと笑みが漏れる。おもわず頬を緩ませてタワンを見上げると、
「僕が帰るまで、ここで待っててくれる?」
 まったく幼くない濡れたような目をまともに見てしまって、ぶわりと頬に熱が集まった。
 ドッドッドッと鼓動が速まる。途端に、ソファで二人きりで抱き合っている、この状況を理解してパニックになった。

 まずい。

 慌てて目を伏せて、けれど逃がさないとばかりに頬に手を添えられる。顎の下を指先が挟んで、くいと顔を上げさせられた。
 タワンはなにも言わなかった。少しだけ細められた目、その縁を覆う濃くて長い睫毛。わずかに寄せられた眉。そのすべてが情欲をあらわしている。
 二人は黙って見つめ合った。キスも言葉もないのに、二人の間に立ちのぼる濃厚な気配に、くらりと眩暈がする。
 
 ふいに大音量で機械のメロディ音が流れて、その気配をぶつりと断ち切った。驚いて、弾かれたように身を引く。音はタワンのジャケットの胸ポケットから流れていた。
 タワンはわずかに眉を寄せて、胸ポケットからスマホを取り出した。発信画面を見て、目元を細める。
「Hello?」
 スマホを耳にあてて立ち上がると、一度ポンと結の頭に手を添えて窓際の方に向かっていった。ソファに取り残された結は、その背中を見ながら両手を頬に添えた。あつい。

 なにやってたんだ、私。

 急速に冷静さを取り戻して、ウワーウワーと恥ずかしさで心の中で悶絶する。
 なにしてたの。問いをもう一度自分にぶつけて、だけど答えることなんてできない。
 ヨウはタワンなのだとしても、タワンはヨウじゃない。赤くなる頬を抑えてぐっと目を閉じて、そう思った。
 ヨウは絶対あんなキスはしない。

「プートアライユー?(なんて言ったんだ?)」

 ふいにタワンが大きな声を出して、結は目を開けた。珍しく少し怒ったような顔で、タワンが通話相手に険しい顔をしていた。
「うそだろ」
 タワンがそう言ったと同時に、

 コンコンコン!

 部屋の扉が、強く鳴らされた。
 タワンがスマホを耳から離して舌打ちする。
 結はポカンとその扉を見ていた。
 ハァッと大きく息を吐いたタワンが、苛々したように大股で部屋を突っ切る。その間もノックは続いている。

 なに?
 だれ?

 扉を開ける寸前、タワンがチラリと結を振り返った。なぜか苦い顔になって、その意味がわかるより早く。

 ガチャリ。
 扉が開いた。

「いつこっちに戻って来たの?」
 タワンの驚いたような、呆れたような声が聞こえる。
「ついさっきだよ。やっぱりバンコクはロッティ(渋滞)がひどくていかん」
「お土産を渡しにホテルに行ったら、あなたはいないと言われて」
 タワンの前には、五十代くらいの男女が立っていた。男の方がタワンの肩越しにこちらを覗きこむ。ソファに座ったまま、呆気にとられて彼らを見ている結に向かって笑いかけた。
「君がユイさんだね」
 目が合って、結はなにも返せなかった。
 驚いた。そう言ったその人は、タワンにそっくりだったから。



「ユイ、紹介するよ。僕の両親」
 おもわず結は立ち上がって、両手を前で組んだ。けれど自分から近づいていく度胸はなく、その場で佇んで玄関先に立つ二人を見る。
 タワンより背は低く、けれどすっと伸びた背筋が威厳に溢れている、タワンの父親。優しい眼差しがタワンによく似ていた。そして、その隣に立つ、
「……お母さん、ですか?」
 おもわずそう呟いて、慌てて口元を手の甲で覆う。その問いに、女性は目元に笑い皺を浮かべて頷いた。卵型の褐色の肌を包む、ゆるいパーマのかかった髪が胸下でふっさりと揺れる。
「はじめまして、ユイさん」
 
 結は返事もできず、そのひとを凝視した。昔何度も見たタワンのお母さん。色あせたエプロンをつけて、大きな箒を持って、黙々と掃除していた彼女。 
 記憶にあるタワンの母親と、今目の前にいるひとは、まったくの別人だった。印象がちがう、という意味ではなく、文字通りの別人物。
 答えを求めるようにタワンを見る。彼も突然の訪問に面食らっているようで、両腕を組んで両親に向かって言った。
「もう少し前に連絡してくれよ」
父親がカラカラと笑って答える。
「かわいい日本人の子をホテルに引っ張りこんだと聞いてはな」
「父さん」
 タワンは組んでいた両腕を解くと、やめてくれと声を上げた。
「誤解を招く言い方はよしてくれ」
「誤解? そうか誤解なんだな」
 笑みを浮かべていた父親は、一転してまじめな顔で言った。
「誤った情報は厄介ごとの種になる。足元を掬われぬよう気をつけることだ」
 父親の眼差しが鋭さを帯びて、タワンは不意を突かれたように押し黙った。
「ユイさん」
 こちらを振り返ったタワンの父親は、もう笑みを浮かべていた。その変わり身の早さに、結はついていけず固まる。タワンの父親は構わずスタスタとこちらに歩み寄ると、タイ人らしく胸元で手を合わせたワイの挨拶をした。結も慌てて同じしぐさを返す。
「うちの制服がよく似合う」
 言われて、着たままの青色の民族衣装に目をやった。褒められているはずなのに、どうにもいたたまれさが勝って浮かべる笑みがぎこちない。
 そのあとに、言われたことの違和感が遅れて脳にひびく。

 うちの制服? 
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