恋するバンコク
 リビングの横にある寝室。キングサイズのベッドは大きく、先の見えない航海に出る船に乗ったように心もとなかった。
 灯りをつけないベッドの上で、タワンが静かに動く。結のシャツを脱がせて、その身体を見つめる。黒い目が仕事の時みたいに真剣な貌をして、そのことがとても恥ずかしい。いっそのこと笑ってしまいたくて、でもそんなこと到底できない。おとこの前で初めて肌を見せるとき、恐くない女がいるわけない。
 文字通り、すべてを晒す。結も、彼のすべてを見た。いつもはストイックなスーツに隠されている膚。臍のななめ上のところに、ホクロがあった。
 結の上にのしかかったタワンは、そっと結に触れていった。高志とはちがう触り方。結の白い肌を、褐色の肌がさ迷う。
「きれいだ」
 ずっと黙っていたタワンが、かすれた声を出す。
「君はとてもきれいだ」
 強く抱きしめられて、ベッドのシーツがいくつもの波を描く。
「今日僕は、君にもう一度恋をしたよ」
 恥ずかしい言葉を真剣な顔で言って、とまどう結に子どものように無邪気に笑いかけた。その笑顔を見て、強張っていた体の力がふっと緩む。

 大丈夫。

 何度か思ったことを心の中でまたつぶやいて、タワンの背中に腕を回した。結のかすかに震えている手は冷たくなっていて、タワンの熱い肌が心地よかった。

「ユイ」
 僕を見て。
 そう主張するようにタワンが低い声で皮膚を食む。びくりとのけ反ったその首筋もきつく吸われた。耳元でつぶやかれたタイ語は早すぎて聞き取れない。夢うつつのような気もちで甘い痛みに翻弄される。
 やがてタワンの指がゆっくりと結を開いて、痛みと熱に襲われる。もうやめてと首を振れば、その抵抗を封じるように激しいキスが降る。唇からはずれて、体を舐る熱い舌。覆いかぶさるタワンは野生の獣のようで、タワンこそ綺麗だ、と結は最前の台詞を思い出して心の中でつぶやいた。
 ユイ、ユイ、ユイ。
 呻くように名前を繰り返すきれいな獣。手を伸ばしたら、潤んだ視界から涙が流れた。
 伸ばした手を、タワンはしっかりと握った。互いの指先同士を編むようにしっかりと繋ぎ合わせる。結は自然と足を広げ、そしてすべてを受け入れた。

「タワン」

 もう一度来る痛みと一緒に、世界が急激に狭くなっていく。聞こえるのは自分の声だけ。見えるのは圧しかかるタワンだけ。タワンが結の鎖骨にキスをした。汗が二人の肌の上を滑る。

 身体の一部が物理的に繋がるなんて、冷静に考えるとすごく不可解だ。この不可思議な熱を当たり前のように分け合う自分たちの性を、滑稽なようにもどこか敬虔なもののようにも思った。
 一番深くまでつながって、こんなことを許せる相手が、好きじゃないなんてありえない。
 タワン、タワン、タワン。
 結も繰り返し呼ぶ。タワンの表情が苦痛を感じるように歪んでいて、それなのにすごくかっこいい。もう細かいことなんて考えられない。隙間なく密着して、言葉にできないなにかを補うように抱き合う。熱が、溶ける。

 このひとが好きだ。
 もう迷う振りもできなかった。



 眠っている結を見つめるタワンの目は穏やかだった。このきれいでかわいい人が、ようやく自分の恋人になってくれた。そう思うと昂揚した気持ちは増すばかりで、一向に眠気は訪れない。今からホテルに戻って夜勤スタッフと一緒に館内の見回りができそうなくらいだけど、そんなことはしない。こんな記念すべき夜に、彼女の元を離れるなんてできるわけがない。

 ユイ。

 心の中で何度も読んだ名前を、もう一度唱える。聞こえたわけでもないだろうけど、結が顔をわずかに反らして白い首をこちらに向けた。さきほど付けた薄赤い印が露わになる。制服で隠れる場所、からわずかに外れているそれに、目が覚めた時向けられるだろう非難を想像しても笑みは消えない。
 タワンの肩甲骨のあたりを爪で抉るほど強くつかんでいた手も、今は何かを掴もうとするような形のままシーツに倒れている。ばらばらに曲げられた指に自分の手を絡めてみたいけれど、彼女を起こすことはしたくない。代わりにそっとブランケットを引き上げて、裸の肌が冷えないようにした。

 起きているときのユイも可愛いけれど、眠っているユイは白い肌を黒髪が流れるように包んで、童話の白雪姫のようだ。あの話を読んだとき、なぜ王子は出会って数秒の女性に口づけられるのかずっと疑問だったけれど、今ならわかる。そうせずにはいられない衝動はたしかにあるのだ。

 十六年前、おひさまのようにまぶしく笑う彼女に恋をした。
 だけど、好きだと思っていた時間より、ほのかな苦味を味わっている時間が長かったように思う。
 最後まで言えなかった。自分が男の子だということ。同性の親友ではなく、男の子として意識してほしかったこと。
 伝えたくて、でも一方で恐れてもいた。
 自分の気もちを彫ったペンダント。ユイはタイ文字を読めない。それを承知で彫った告白。
 
 気づいてほしい。
 でも、こわい。嘘つきだと思われたくない。
 
 彼女が読めない文字で綴った愛の告白は、きっと届くことはない。ひどく中途半端だ。
 後悔した。日常の中にユイがいなくなってからこそ、ものすごく後悔した。
 きちんと伝えればよかった。嘘つきだと罵られても、嫌われても。だまし続けるよりはきっとマシだった。
 だから日本語を勉強した。もしいつか会えたら、きちんと謝りたくて。そしてできれば、もう一度最初からやり直したくて。
 それなのに彼女は、タワンのペンダントを持っていた。今でもきっと読めないだろう文字で綴られた、ずるい告白を刻んだペンダントを、大事そうに肌身離さず。

 運命だと思った。
 そう告げたら、君は笑うだろうか。
  
 お金がないなら、体で払ってもらおうかな

 衝動に突き動かされて、強引なことを言ったし、した。それでももう離したくなかった。
 あの頃と同じ、お日様のような笑顔。だけど時々、すごく悲しそうな顔をする。昔はなかった大人の女性の顔で、誰にも気づかれないように、そっと。そしてあのペンダントに触れる。なにかに縋るような眼差しで。
 俯くユイに、はじめて会った時の女の子が重なった。真っ赤な目をして泣いていた、小さな日本人の女の子。
 泣き腫らした目でタワンを見上げる子どものユイも、泣くのを我慢した顔で笑う大人のユイも、どちらも愛しいと思った。
 タワンはユイにもう一度恋をしていた。

 眠るユイにそっと顔を近づける。彼女の匂いが、優しくタワンを包んで。
 生きてる中で一番幸せな夜だった。
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