恋するバンコク
エレベーターを待つ間、パラハーンは一言も口を利かなかった。そのことが結の胸の中を加速的に重たくしていく。自分から話しかけようにも、こちらを一瞥もしないパラハーンには声をかける隙がない。
この間はニコニコと笑っていたパラハーンは、厳しい顔で正面を向いている。態度が一変した理由は、一つしか思い当たらなかった。
連れていかれたのは、いつかのテレビ番組のクルーが使っていたデラックス・スイートルームだった。パラハーンが中に入ると、長ソファにタワンが座っていた。結を見ると、弾かれたように立ち上がる。
「ユイ」
「……タワン」
さっき別れたばかりの恋人の名前を呼ぶ。タワンは結に歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。
パラハーンはソファの向かいに乱暴に腰を下ろすと、
「警察が来たそうじゃないか」
短く言って息を吐いた。
やっぱり、その話か。前で垂らした手が緊張で冷たくなる。
「すまない」
タワンが父親に答えて、結の肩を抱く手に力をこめる。萎縮する結を励ますように。
パラハーンはソファの前に立つタワンをジロリと見上げた。痩せた喉に垂れる皮膚を見て、半分引退してる、という言葉を思い出す。膝に置かれた指先にも細かい皺がいくつもあった。
沈黙がひりつく痛みを伴って室内に広がる。静まり返った部屋の中で、パラハーンが口を開いた。
「警察が来たとき、ロビーにお客様は何人いた」
「二十八人です」
父親に対してではなく、ボスに向ける口調に変えてタワンは答えた。パラハーンは背もたれに体を預けると、疲れたように目を閉じた。
「多いな」
「中国人団体客が来たところでした」
「トリップアドバイザーは」
「直後と、三分前にも確認しました。今のところなにも書かれていません。他のクチコミサイトも同様です」
「問い合わせは」
「電話とメールはどちらもありません。カウンタースタッフに質問したお客様が二組いらしたそうですが、情報提供に協力したとだけお伝えしています」
よどみなく続く会話の応酬を聞いて、結の背中に冷たい汗が流れてくる。
ホテルに警察が来る。ましてや、スタッフを連れていくところを宿泊客が見てしまう。
二人の話、その口ぶりから、それがもたらすリスクを今ようやく理解した。
あの時タワンはにこやかに対応しているように見えたけれど、影響範囲についてめまぐるしく考えていた、そのこともわかった。
前で垂らしていた両手を強く握りしめると、爪が皮膚に食い込んだ。
ロビーへと戻ってきて、フロアはいつも通りだと浅はかにも考えた。
同じだなんて、どうして思えたんだろう。
タワンはきっととても心配していたはずだ。そのことに思い至れなかった自分が恥ずかしかった。
パラハーンが深く息を吐く。
「こうなることをまったく考えなかったわけじゃない。だから、これは私のミスだ」
パラハーンが自分の言葉を噛みしめるように数度頷く。その様子を見ながら、はじめて会った時の言葉が頭をよぎった。
誤った情報は厄介ごとの種になる。
そう言ってパラハーンは厳しい目をタワンに向けていた。
あのとき、こんな可能性について懸念していたのかもしれない。
それなのになにも言わなかった。その理由を考えると胸が石を詰められたように固くなる。
タワンと、もしかしたら結のことも、信じてくれていたのかもしれない。
「申し訳ございません」
タワンはそう言って、体を折ると深く頭を下げた。垂れた前髪が表情を覆う。
自分がタワンに、あんなことをさせている。耐えきれずうつむくと、着ている青い民族衣装の制服が視界に入る。よく似合う、とほかでもないパラハーンに言われたそれが、まったく似合わないものに見える。
たまらなく恥ずかしかった。
「それでも私は」
タワンは顔を上げると、いささかも揺らぐ様子も見せずに父親に告げた。
「彼女をそばに置いたことを、後悔してません」
結はゆるぎない表情で父親を見るタワンをぼうと見つめた。
どうしてこのひとは、いつもこんなにまっすぐなんだろう。決して不器用な方ではないくせに。取り繕うこともせず、背筋を伸ばしてパラハーンに向かいあっている。
パラハーンは厳しい眼差しを息子に向けた。
「許される失敗は一度だけだ。彼女には早々に出て行ってもらう」
タワンが目を見開く。結は思いのほか冷静に、その言葉を聞いていた。
「ユイさん」
パラハーンが今日初めて結の名前を呼ぶ。けれどそこに温かみはなく、無機質な響きが耳に残った。
「航空券はこちらで用意しよう。今後息子とは関わらないでほしい」
「父さん!」
タワンが怒鳴る。パラハーンは憤る息子と目を合わせた。表情にはじめて怒りが滲む。
「また同じようなことが起きないとも限らないんだぞ。そのたびにホテルを危険に晒しても良いというのか」
タワンがなにを言うつもりなのかわかった。だからこそ、やめて、と心が叫ぶ。
タワン。
「僕は結が一番大切なんだ」
まっすぐに言い切ったタワンの言葉が、ついさっきまでは胸を震わせたその言葉が、胸に突き刺さる。
パラハーンとぺチャラパンの誇らしげな顔が脳裏に浮かんだ。
親の私が言うのもなんだが、こいつは割にしっかりしてる
そう言ったパラハーンはとても、嬉しそうだったのに。
固い沈黙が落ちた。やがてパラハーンが静かに言う。
「本気でそんなことを言うなら、おまえは支配人の椅子にふさわしくない」
息子を見据える目はけれど、たしかに傷ついた痛みを伴っていた。
パラハーンの言葉に、タワンはひとつ頷く。
「いいさ」
「タワン、やめて」
耐えきれず口を挟んでも、タワンはパラハーンと目をそらすことなく告げた。
「結と離れるくらいなら、僕は支配人の席を下りるよ」
ドン。
それまでより一段重く強く、胸が鳴る。
「……そんな」
頬がビリビリと痛み、握りしめた拳が震える。
パラハーンが深く眉を寄せた。パラハーンだって、本当はこんなこと言いたくなかったはずだ。
私のせいだ。
私がここにいるせいで、タワンは仕事を辞めようとしている。挙句、お父さんまで傷つけた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
途方に暮れた顔をする結に、タワンは穏やかな目を向けた。結を見るその目は優しさに溢れていて、だからよけいに胸が苦しくなる。
空っぽになっていた結に、たくさんの言葉と愛を注いで満たしてくれた人。
そのひとが今、結のために大事なものを捨てようとしてる。
薄闇のワット・アルンを見つめながら、この仕事をとても好きなんだと、そう言って笑ったくせに。
お金がないなら、体で払ってもらおうかな
それなのにあの時、傷ついた結を放っておけずにあんなことを言った。
やさしいひと。
胸がきゅうっと捻じれた。
もういいよ。
そう思うと、ふっと覚悟が結の身体を後押しした。
背筋を伸ばすと、胸が震えた。
今だけは。
決意を込めながら体に力を入れる。
ロビーを歩き出す時のタワンのように、堂々と振る舞うと決めた。
大好き。
ありがとう、大好き。
言葉が胸を満たす。
もう一度ありがとう、と心で唱えて、結は口を開いた。
「なにか勘違いされてませんか?」
この間はニコニコと笑っていたパラハーンは、厳しい顔で正面を向いている。態度が一変した理由は、一つしか思い当たらなかった。
連れていかれたのは、いつかのテレビ番組のクルーが使っていたデラックス・スイートルームだった。パラハーンが中に入ると、長ソファにタワンが座っていた。結を見ると、弾かれたように立ち上がる。
「ユイ」
「……タワン」
さっき別れたばかりの恋人の名前を呼ぶ。タワンは結に歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。
パラハーンはソファの向かいに乱暴に腰を下ろすと、
「警察が来たそうじゃないか」
短く言って息を吐いた。
やっぱり、その話か。前で垂らした手が緊張で冷たくなる。
「すまない」
タワンが父親に答えて、結の肩を抱く手に力をこめる。萎縮する結を励ますように。
パラハーンはソファの前に立つタワンをジロリと見上げた。痩せた喉に垂れる皮膚を見て、半分引退してる、という言葉を思い出す。膝に置かれた指先にも細かい皺がいくつもあった。
沈黙がひりつく痛みを伴って室内に広がる。静まり返った部屋の中で、パラハーンが口を開いた。
「警察が来たとき、ロビーにお客様は何人いた」
「二十八人です」
父親に対してではなく、ボスに向ける口調に変えてタワンは答えた。パラハーンは背もたれに体を預けると、疲れたように目を閉じた。
「多いな」
「中国人団体客が来たところでした」
「トリップアドバイザーは」
「直後と、三分前にも確認しました。今のところなにも書かれていません。他のクチコミサイトも同様です」
「問い合わせは」
「電話とメールはどちらもありません。カウンタースタッフに質問したお客様が二組いらしたそうですが、情報提供に協力したとだけお伝えしています」
よどみなく続く会話の応酬を聞いて、結の背中に冷たい汗が流れてくる。
ホテルに警察が来る。ましてや、スタッフを連れていくところを宿泊客が見てしまう。
二人の話、その口ぶりから、それがもたらすリスクを今ようやく理解した。
あの時タワンはにこやかに対応しているように見えたけれど、影響範囲についてめまぐるしく考えていた、そのこともわかった。
前で垂らしていた両手を強く握りしめると、爪が皮膚に食い込んだ。
ロビーへと戻ってきて、フロアはいつも通りだと浅はかにも考えた。
同じだなんて、どうして思えたんだろう。
タワンはきっととても心配していたはずだ。そのことに思い至れなかった自分が恥ずかしかった。
パラハーンが深く息を吐く。
「こうなることをまったく考えなかったわけじゃない。だから、これは私のミスだ」
パラハーンが自分の言葉を噛みしめるように数度頷く。その様子を見ながら、はじめて会った時の言葉が頭をよぎった。
誤った情報は厄介ごとの種になる。
そう言ってパラハーンは厳しい目をタワンに向けていた。
あのとき、こんな可能性について懸念していたのかもしれない。
それなのになにも言わなかった。その理由を考えると胸が石を詰められたように固くなる。
タワンと、もしかしたら結のことも、信じてくれていたのかもしれない。
「申し訳ございません」
タワンはそう言って、体を折ると深く頭を下げた。垂れた前髪が表情を覆う。
自分がタワンに、あんなことをさせている。耐えきれずうつむくと、着ている青い民族衣装の制服が視界に入る。よく似合う、とほかでもないパラハーンに言われたそれが、まったく似合わないものに見える。
たまらなく恥ずかしかった。
「それでも私は」
タワンは顔を上げると、いささかも揺らぐ様子も見せずに父親に告げた。
「彼女をそばに置いたことを、後悔してません」
結はゆるぎない表情で父親を見るタワンをぼうと見つめた。
どうしてこのひとは、いつもこんなにまっすぐなんだろう。決して不器用な方ではないくせに。取り繕うこともせず、背筋を伸ばしてパラハーンに向かいあっている。
パラハーンは厳しい眼差しを息子に向けた。
「許される失敗は一度だけだ。彼女には早々に出て行ってもらう」
タワンが目を見開く。結は思いのほか冷静に、その言葉を聞いていた。
「ユイさん」
パラハーンが今日初めて結の名前を呼ぶ。けれどそこに温かみはなく、無機質な響きが耳に残った。
「航空券はこちらで用意しよう。今後息子とは関わらないでほしい」
「父さん!」
タワンが怒鳴る。パラハーンは憤る息子と目を合わせた。表情にはじめて怒りが滲む。
「また同じようなことが起きないとも限らないんだぞ。そのたびにホテルを危険に晒しても良いというのか」
タワンがなにを言うつもりなのかわかった。だからこそ、やめて、と心が叫ぶ。
タワン。
「僕は結が一番大切なんだ」
まっすぐに言い切ったタワンの言葉が、ついさっきまでは胸を震わせたその言葉が、胸に突き刺さる。
パラハーンとぺチャラパンの誇らしげな顔が脳裏に浮かんだ。
親の私が言うのもなんだが、こいつは割にしっかりしてる
そう言ったパラハーンはとても、嬉しそうだったのに。
固い沈黙が落ちた。やがてパラハーンが静かに言う。
「本気でそんなことを言うなら、おまえは支配人の椅子にふさわしくない」
息子を見据える目はけれど、たしかに傷ついた痛みを伴っていた。
パラハーンの言葉に、タワンはひとつ頷く。
「いいさ」
「タワン、やめて」
耐えきれず口を挟んでも、タワンはパラハーンと目をそらすことなく告げた。
「結と離れるくらいなら、僕は支配人の席を下りるよ」
ドン。
それまでより一段重く強く、胸が鳴る。
「……そんな」
頬がビリビリと痛み、握りしめた拳が震える。
パラハーンが深く眉を寄せた。パラハーンだって、本当はこんなこと言いたくなかったはずだ。
私のせいだ。
私がここにいるせいで、タワンは仕事を辞めようとしている。挙句、お父さんまで傷つけた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
途方に暮れた顔をする結に、タワンは穏やかな目を向けた。結を見るその目は優しさに溢れていて、だからよけいに胸が苦しくなる。
空っぽになっていた結に、たくさんの言葉と愛を注いで満たしてくれた人。
そのひとが今、結のために大事なものを捨てようとしてる。
薄闇のワット・アルンを見つめながら、この仕事をとても好きなんだと、そう言って笑ったくせに。
お金がないなら、体で払ってもらおうかな
それなのにあの時、傷ついた結を放っておけずにあんなことを言った。
やさしいひと。
胸がきゅうっと捻じれた。
もういいよ。
そう思うと、ふっと覚悟が結の身体を後押しした。
背筋を伸ばすと、胸が震えた。
今だけは。
決意を込めながら体に力を入れる。
ロビーを歩き出す時のタワンのように、堂々と振る舞うと決めた。
大好き。
ありがとう、大好き。
言葉が胸を満たす。
もう一度ありがとう、と心で唱えて、結は口を開いた。
「なにか勘違いされてませんか?」