恋するバンコク
おなかに力を力を込めて出した低い声に、パラハーンが問うように片眉を上げた。
「この人がどうしてもっていうから少し付き合ってみましたけど、ほんとは私、迷惑してるんです」
声、震えるな。
パラハーンが驚いたように目を見張る。
「……ユイ?」
隣からかかる優しい声。やさしい人は、細部までやさしいんだな。
そう思って涙が浮かびそうになって、その気配を必死で殺す。
「私もう、日本に帰るつもりだったんです」
タワンが目を見開く。
「ユイ?」
まだ傷ついてさえない。結の言ってることがわからず、当惑してる顔。
ふっと横に視線を滑らせる。パラハーンが、お父さんが、息子とそっくりの顔をして結を見ていた。
ああ親子だなと思った。やっぱり二人はよく似ていて、そんなことが胸に甘い喜びと切なさを刻む。
「私、失恋したんです」
ふっと笑みを浮かべて結は言った。パラハーンが怪訝な顔でこちらを見るのもかまわず、
「仕事も辞めて、自棄になってこの国に来ました。もしあのまま日本にいたら、どうなっていたかわからない」
暗い部屋で、朽ちていたかもしれない。
だけどこの国に来て、タワンと出会った。
素敵なことは、起きた。
だから、それだけで十分だ。
「ホテルに転がりこめて、最初はラッキーだなって思ったけど、正直もう飽きてたし。ちょうど帰るつもりだったんですよ」
「ユイ」
タワンの声に、鋭さが増す。同時に肩を強く捕まれた。さっき警官たちに取り押さえられたときと同じ部分を握られて、また鈍く痛む。
ううん、さっきよりももっと。
結は冷めた目をタワンに向けた。結の言ってることを理解したタワンの目が、驚愕に揺れている。
ふいに、ヨウを思い出した。さよならを言ったときの、涙に濡れた澄んだ目。
また傷つけちゃったな。
「だから、辞めるとか言われても困るし迷惑なんですよね」
タワンの黒い目が見開かれ、まるでナイフを突き立てられたような顔になった。
ナイフが、一巡する。タワンの胸を突いたナイフが、そのまま結の胸に食いこむ。
まだだ。まだ、泣けない。
「……本気で言ってるの?」
タワンが低い声を漏らす。当惑と、それ以上の苦しみが声を震わせている。
結は傲然と顎を上げて腕を組んだ。
「あたりまえでしょう。お金持ちみたいだから、いいやって思ってたけど。やっぱり私、恋人は高志みたいに日本人がいいの」
バキン、と。
首に下げたネックレスが、音を立てて割れた気がした。
タワンの表情が一瞬消え、その後に結が一度も見たことのない顔が見えた。
道端の石ころを見るような、感情の無い目。
タワンがわずかに唇を開いた。その瞬間、真っ黒な石のような目に哀切がよぎる。
「君はひどい人だな」
その言葉が終焉を示していた。
罵りも罵倒もせず、けれどタワンはもう、結を見ることはなかった。
そのまま目の前を通り過ぎると、一度も振り返ることがなく部屋を出て行く。背中で聞いた足音は、いつもより大きかった。彼の混乱と憤りを表わしているように。
ぶわりと、耐えきれない涙があふれる。勢いのままに、結は両手で口元を覆った。
「――――っ」
子どものころ、最後に聞いた言葉はまた会おうね、だった。
だけど今は。
もう会えない。二度と会うことはない。
「ユイさん」
いつのまにか立ち上がっていたパラハーンが、結を覗きこむように名前を呼んだ。表情にはとまどいが濃厚に浮かんでいる。
結は両手で目元を乱暴にこすると、パラハーンを見た。
「タワン、さんのこと、信じてください。彼なら大丈夫です」
自分が一番大事だと思うものだけを大切にすればいいんだ。タワンはそう言った。
大切なものを守るためにほかを切り捨ててもいいと思うのは、とても傲慢なことだと知った。
タワンにとっては、結でも。
結にとってはタワンだ。
両親に信頼されて、照れたように笑うあの笑顔が好きだ。
これはだから、守るのとはちがう。本人が手放そうとした場所に勝手にしばりつけようとしてる、結のエゴだ。
「日本に帰ったら、このホテルのこと友だちに話します。すごいイケメンの支配人がいる、素敵なホテルだったよーって、宣伝しますね」
旅行者が旅の感想を言うように、結は笑った。その目が赤いことはわかっている。きっともちろん、パラハーンも。
なんとも言えない顔でこちらを見るパラハーンに、結は念を押すように言った。
「私の話を聞いた友だちがここに来た時、タワンさんがいないとダメですよ」
だからここで働き続けてほしい。言外にそう伝えた。パラハーンはなにも言わず、ただ黙って結を見ていた。
タワンの話なんて、きっとだれにもできない。高志のときとはちがう。
大切すぎるから、自分一人で抱えておきたい宝物だから。
だからきっと私はこの先も、誰にも話さないだろう。
バンコクで、恋をしたことを。
「この人がどうしてもっていうから少し付き合ってみましたけど、ほんとは私、迷惑してるんです」
声、震えるな。
パラハーンが驚いたように目を見張る。
「……ユイ?」
隣からかかる優しい声。やさしい人は、細部までやさしいんだな。
そう思って涙が浮かびそうになって、その気配を必死で殺す。
「私もう、日本に帰るつもりだったんです」
タワンが目を見開く。
「ユイ?」
まだ傷ついてさえない。結の言ってることがわからず、当惑してる顔。
ふっと横に視線を滑らせる。パラハーンが、お父さんが、息子とそっくりの顔をして結を見ていた。
ああ親子だなと思った。やっぱり二人はよく似ていて、そんなことが胸に甘い喜びと切なさを刻む。
「私、失恋したんです」
ふっと笑みを浮かべて結は言った。パラハーンが怪訝な顔でこちらを見るのもかまわず、
「仕事も辞めて、自棄になってこの国に来ました。もしあのまま日本にいたら、どうなっていたかわからない」
暗い部屋で、朽ちていたかもしれない。
だけどこの国に来て、タワンと出会った。
素敵なことは、起きた。
だから、それだけで十分だ。
「ホテルに転がりこめて、最初はラッキーだなって思ったけど、正直もう飽きてたし。ちょうど帰るつもりだったんですよ」
「ユイ」
タワンの声に、鋭さが増す。同時に肩を強く捕まれた。さっき警官たちに取り押さえられたときと同じ部分を握られて、また鈍く痛む。
ううん、さっきよりももっと。
結は冷めた目をタワンに向けた。結の言ってることを理解したタワンの目が、驚愕に揺れている。
ふいに、ヨウを思い出した。さよならを言ったときの、涙に濡れた澄んだ目。
また傷つけちゃったな。
「だから、辞めるとか言われても困るし迷惑なんですよね」
タワンの黒い目が見開かれ、まるでナイフを突き立てられたような顔になった。
ナイフが、一巡する。タワンの胸を突いたナイフが、そのまま結の胸に食いこむ。
まだだ。まだ、泣けない。
「……本気で言ってるの?」
タワンが低い声を漏らす。当惑と、それ以上の苦しみが声を震わせている。
結は傲然と顎を上げて腕を組んだ。
「あたりまえでしょう。お金持ちみたいだから、いいやって思ってたけど。やっぱり私、恋人は高志みたいに日本人がいいの」
バキン、と。
首に下げたネックレスが、音を立てて割れた気がした。
タワンの表情が一瞬消え、その後に結が一度も見たことのない顔が見えた。
道端の石ころを見るような、感情の無い目。
タワンがわずかに唇を開いた。その瞬間、真っ黒な石のような目に哀切がよぎる。
「君はひどい人だな」
その言葉が終焉を示していた。
罵りも罵倒もせず、けれどタワンはもう、結を見ることはなかった。
そのまま目の前を通り過ぎると、一度も振り返ることがなく部屋を出て行く。背中で聞いた足音は、いつもより大きかった。彼の混乱と憤りを表わしているように。
ぶわりと、耐えきれない涙があふれる。勢いのままに、結は両手で口元を覆った。
「――――っ」
子どものころ、最後に聞いた言葉はまた会おうね、だった。
だけど今は。
もう会えない。二度と会うことはない。
「ユイさん」
いつのまにか立ち上がっていたパラハーンが、結を覗きこむように名前を呼んだ。表情にはとまどいが濃厚に浮かんでいる。
結は両手で目元を乱暴にこすると、パラハーンを見た。
「タワン、さんのこと、信じてください。彼なら大丈夫です」
自分が一番大事だと思うものだけを大切にすればいいんだ。タワンはそう言った。
大切なものを守るためにほかを切り捨ててもいいと思うのは、とても傲慢なことだと知った。
タワンにとっては、結でも。
結にとってはタワンだ。
両親に信頼されて、照れたように笑うあの笑顔が好きだ。
これはだから、守るのとはちがう。本人が手放そうとした場所に勝手にしばりつけようとしてる、結のエゴだ。
「日本に帰ったら、このホテルのこと友だちに話します。すごいイケメンの支配人がいる、素敵なホテルだったよーって、宣伝しますね」
旅行者が旅の感想を言うように、結は笑った。その目が赤いことはわかっている。きっともちろん、パラハーンも。
なんとも言えない顔でこちらを見るパラハーンに、結は念を押すように言った。
「私の話を聞いた友だちがここに来た時、タワンさんがいないとダメですよ」
だからここで働き続けてほしい。言外にそう伝えた。パラハーンはなにも言わず、ただ黙って結を見ていた。
タワンの話なんて、きっとだれにもできない。高志のときとはちがう。
大切すぎるから、自分一人で抱えておきたい宝物だから。
だからきっと私はこの先も、誰にも話さないだろう。
バンコクで、恋をしたことを。