恋するバンコク
 タワンと瞳が付き合う?
 
 今まで一度も考えたことのないことを言われ、すぐには理解ができなかった。
 その後何度か高志が電話をかけなおしていたけれど、ふたたび繋がることはなかった。
 結は求人誌を片手にぼんやりした頭のまま高志に背を向けて、気がついたらアパートへと帰って来ていた。
 パサリ。
 求人誌をテーブルに置くと、その拍子にポロリとそれがカーペットに転がり落ちる。
 雫の形の、薄青いペンダント。
 そっと拾い上げる。しんしん冷えた室温を吸いこんでか、それは朝方の水のように冷たかった。
 裏返す。刻まれたタイ文字。結には読めない言葉を、読めないことを承知で刻んだ彼を、思った。
 
 君のことを愛し続ける
 必ず幸せにする

「どうやって、読むんだろうね」
 勉強すればよかった。こんなふうに、まだ伝えあえないことが、理解が及ばないことがある。
 その差がもどかしくて、少し屈託もあって、だけど違う国だからこその驚きも感動もあった。
 屋台でローカルフードの食べ方を教わった。
 夕闇に見たワット・ポーやワット・アルン。祈りをささげる美しい後ろ姿。
 日本人同士だったら知らないこと、見れない面をみせてもらった。

 恋人は高志みたいに日本人がいいの

 自分の放った言葉を思い出して、苦く笑う。
 タワンにゴーホッ(うそつき)と言われたことがあった。
 ほんと。嘘つきね。

 掌のペンダントが、じわりと淡く滲んでいった。そのまま消えてしまうのかとおもってまばたきをすれば、雫の形のそれにポツッと雨粒のような涙が落ちる。
 ポツッポツッ。
「――――っ」
 俯いた勢いのまま、ごろりと丸まる。体が小刻みに震える。
 いたい。
 胸がいたかった。
 馬鹿だ。
 こんなにつらいのに、どうしてあんなこと言えたんだろう?
 
 好きだ。
 タワンが好きだ。
 一時間後も、夜寝る前も、眠ってからも、明日も、あさっても。
 ずうっとその気もちが続くだけだ。

 その事実が胸に沁みこんで、とめどなく涙があふれる。
 瞳と付き合うなんて、そんな冗談みたいなことも、確認するすべがない。そのことが嫌だった。
 ついこの間まで、振り返ればいつも彼はそこにいたのに。

 ああ。
 バンコクはなんて遠いんだろう。 
< 35 / 40 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop