恋するバンコク
サワン・ファー・ホテル
 サワン、はタイ語で楽園を意味する。そしてファーは青。ひとつ思い出すと、眠っていた言葉は鍵の開いた箱から宝石が零れるように、ポロポロと記憶からよみがえってきた。
 サワン・ファー――青い楽園のホテル。その名前が示すとおり、美しいホテルだった。

 広いロビーの中央に、少し段差を作って作られた噴水の水面には大きな蓮の花が浮かんでいる。噴水の水は大きく立つことはなく、ゴポゴポと小さく丸く、下からの青いライトに当たって柔らかに光っている。その噴水の向こう側にはチェックインカウンターが並び、ホテルマンたちがにこやかにほほ笑んでお客を出迎える。
壁は一面ガラス張りになっており、生い茂った椰子の木やガラス玉やタイルで飾ったプールが見渡せた。プールサイドでは欧米人の夫婦がデッキ・チェアに座ってのんびりと水遊びをする子供たちを見ている。
 どこからともなく香るレモングラスの香り。長さの違うガラスの粒がいくつも垂れるシャンデリア。結はぼうっとあたりを見た。

「サワン・ファー・ホテルへようこそ」

 タワンが当たり前のように結のトランクを持つ。まるでこのホテルの宿泊客とでもいうように。結は曖昧に笑い返しながらも、落ち着かなげに視線をゆらゆらと揺らす。
 深い意味も無く自分の住んでいた家を見たいと思って来たけれど、痕跡は跡形もなかった。予想していたことでもあったし、悲しいかと聞かれたらそういうわけではない。けれどやっぱり少し残念だった。

「サワディーカー」

 奥から、両手を胸元で合わせた挨拶をした女性スタッフが歩いて来た。チョコレート色の肌、アーモンド形の目にブラウン系のリップで、にっこりと微笑んだ。
 結がなにか言うより早く、流れるような動作でタワンの持つトランクケースを引き取ると、片手でカウンターを示した。慌てて
「あ、ちがうんです」
 おもわず日本語で言う。ホテルにトランクを持って現れては、チェックインだと思われてもおかしくない。スタッフはタワンを振り返ってふしぎそうな顔をする。
 タワンはといえば、どこか面白がるように結を見つめていた。
「結、ホテルはどこを取ってるの?」
「カオサンにあるユースホステルよ」
 宿の名前を告げる。こんな品格のあるホテルと比べようもない、バックパッカーたちの集まる安宿だ。失業中の身で、贅沢にホテルステイなんてできるわけもなかった。
 するとタワンは、とまどうように眉間に皺を寄せた。

「そこ、先週で潰れてるよ」
 え? 

 言われたことが咄嗟に理解できなかった。タワンは一瞬前の笑顔を消した真剣な顔で、
「オーナーが宿泊客の荷物を持って逃げたんだ。今はもうやってないんだよ」
「うそでしょ」
 おもわず叫んでいた。宿泊費は予約の時点でクレジットカードで支払っている。背筋を冷たいものがはしった。
 横に立つスタッフも、結の様子でなにかを察したのかとまどったようにタワンを見る。青くなった結をじっと見ていたタワンは、ゆっくりと口を開いた。
「ユイ」
 大使館に行ってみる? 咄嗟に思って、自分で却下する。ここはタイだ。こういうときに真っ向から手続きを行おうとしても時間ばかりが無駄に取られてしまうことは、昔から聞いていた。交通事故の違反切符を切られても、 お金を渡せば見なかったことにしてくれる、そんなところもある国なのだ。

 ぽん、と肩に大きな手が乗る。びくりとして顔を上げると、自分をまっすぐに見つめるタワンと目が合った。
「落ち着いて。大丈夫だから」
 深みのある声と穏やかな眼差しに促がされて、おもわず深く息を吐く。息を吐いたら、自分の体が強張っていたことを知った。
「泊まるとこがないなら、ここに泊まればいいよ」
「いや……」
 苦笑して首を振る。
「こんな高いところ、とても払えないよ」
 タワンは結をじっと見ていた。そしてニコリと笑うと言った。
「お金がないなら、体で払ってもらおうかな」



 ここね、と通された部屋はベッドが二つと全身鏡が嵌まったクローゼットがあるだけのシンプルな部屋だった。入り口に立ったまま中に入るのを躊躇う結を、タワンが振り返る。にこりと振り返って、結が命綱のように握りしめているトランクをヒョイと奪うと、部屋の奥に持っていってしまう。あぁ、と心中で情けない悲鳴をあげて、もうどうにでもなれ、と最後はやけを起こして後についていった。

 サワン・ファー・ホテルは最近できたばかりのホテルだそうだ。
まだ人材が揃ってないから、日本語を話せるスタッフがほしかったんだよね。
 絶句している結にタワンはそう言って笑った。
 ユイ、ここで働いてみない?

 あぁ、体で払うってそういう……。意味を理解して、それでもまだ固まっている結を半ば強引にこの部屋まで連れてきた。客室と別棟のその部屋は、豪華な飾りはないものの、きれいに掃除されていた。
 タワンはベッドに腰掛けるとゆったりと笑った。
「ここ、従業員用の宿舎。もし働いてもらえるならここを好きに使ってもらっていいよ。あ、二人部屋だから、同室の子がいるんだけど。後で紹介するね」
「あの、タワン」
 ぼんやり説明を聞いていた結は、タワンの説明を慌てて遮った。
「私ただのツーリストだから」
 そんなに長い間、この国にいるつもりはない。長期滞在用のビザなんて、もちろん持ってなかった。
 タワンは笑顔で頷いた。
「たとえ数日だけでもかまわないよ。ただ」
 彫りの深い眼が、じっと結を見る。心の奥まで見透かされそうな、まろやかに光る黒い目。
「わざわざ日本から来て、住んでた家を見たいって言うくらいだから、ただ観光しに来たわけじゃないんだよね?」
 柔らかな声が核心に触れて、目を見張った。
 タワンはニコリと笑顔に戻ると、
「君がこの国でしたいことの手伝いを、できればいいなって思ったんだ。それでついでに、うちのホテルも助けてくれたらなって」
 少し茶化すようにそう言った。
 
 ことり。ペンダントの下にある、心が動く音を聞く。なにかを期待するように。
 それでもまだためらいがあって、不安を口にした。
「私、タイ語はわからないんだけど」
「住んでたって言ってたじゃない」
「昔はね。もう忘れてる」
 首を振って答えると、タワンは妙に自信ありげに言った。
「大丈夫。一度話してた言葉は、何年使ってなくてもちゃんと自分のところに帰ってきてくれるんだよ」
 ジンジン、と言ってタワンは笑う。
 ジンジン。なんだっけ、昔よく聞いたフレーズ。そう、昔よく、ヨウちゃんも――。 
 ぱかり。音もなく、記憶の蓋が開く。
 あぁ、そうだ。
 ジンジン――ほんとだよ。

「きっとユイはもう、ちょっとずつ僕らの言葉を思い出してきてるよ」
 どこか優しい眼差しで諭すように言われれば、そうなのかなとも思えてくる。
 ふっと目線を移せば、全身鏡に映る自分と目が合った。先月よりも痩せた頬と顎。その下にかかっているペンダント。

 きっといつか、素敵なことが起こるから

 もう顔も覚えてない彼女の声が耳元で聞こえる。
 指先でつるりと光るペンダントの表面を撫でる。

「あの、働きますここで」
 小さく呟くように、でも意志をこめて言った。タワンが嬉しそうに笑う。
 素敵なこと。
 まだそれがなにかはわからない。
 それでも、この場所でがんばってみようとおもった。
 掌のペンダントが、決意を応援するようにきらりと光った。
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