砂糖漬け紳士の食べ方
玄関にて彼女を迎えてくれた伊達は、あの日と同じように…いや、あの時よりも一層ひどく疲れた顔をしていた。
目を隠すような長い前髪は、その顔色の悪さを助長して見せている。
相変わらず玄関には物が無い。
まるでモデルルームをそのままここへ持ってきたかのような閑散さだ。
伊達はアキを視認するなり「ああ、どうも」とそっけなく言い、そのままリビングへと戻って行ってしまった。
彼女が慌てて靴を脱ぎ、玄関へあがった。
「し、失礼します」
廊下を行く彼の後ろ姿は、冷えたフローリングとのコントラストで一層みすぼらしく見える。
…相変わらずくたびれた、灰色のトレーナーと、ゆるいジーンズ。
そしてこの寒いのに、裸足。
この人、せっかくスタイルがいいのに何でこんな格好をしているんだろう?
外、出歩かないのかな…
ぼんやりとここまで展開したアキの思考は、急に振り返った伊達によって千切られた。
とっさに、体が固まる。
「…リビングの隣が書斎」
ボソリ。
伊達の低い声が、廊下にぽっかり浮かぶ。
「書斎の隣が作業場。その向かいが寝室」
「あ、はい…」
「とりあえず、リビングへ行っててくれるかい」
そのまま「お茶を入れてくるから」と伊達は言いながらキッチンへフラリと消えた。
お構いなく、というアキの言葉は、細く廊下へ消えていくまま…。
彼女はちらりと視線を手元の紙箱へ落とす。
こうまで掴みようのない印象の人に、果たして『甘いもの懐柔作戦』なんて効果があるのだろうか…。
「……」
促され、恐る恐る入ったリビングもあの日と同じように何の装飾品もない。
一言で言えば、きれいな部屋。
更にもう一言付け加えれば、つまらない部屋。
あるのは小さなソファ二つと、木製のテーブル。それに小さな本棚だけだ。
「…テレビ、観ないのかな」
テレビの音も音楽も何もない空間は、妙に寂しい。
生活感がない部屋というのは、確かにきれいではあるがどことなく無機質なのだ。
しかも更に高級マンションという機能を無駄に発揮し、隣室の生活音はおろか、車の音も人の声もこの部屋には届かないようだった。
静かだ、なんて言葉だけでは表現しづらい、人気のない雰囲気。
ようやく耳をすませば、リビング扉の奥から微かに食器が触れ合う音が漏れ聞こえてくるくらいだった。
しばらくして伊達が盆を抱えてリビングへやってきたのと同時、アキは「武器」であるロールケーキの箱を彼に突き出した。
「あの、先生が甘いものお好きだと伺ったもので。よろしかったら召しあがって下さい」
伊達は、白い紙箱を見つめたまま、テーブルへ盆を置いた。
「…ああ。それはどうも。卓上の隅に置いてくれるかな」
「はい!すみません」
伊達は、手慣れた手つきでテーブルへカップを広げ始めた。
明らかに一人分のティーポット一つ。
やっぱり柄が違うマグとカップが二つ。
そして角砂糖をみっちり詰めた角砂糖入れも一つ。
「…君、座らないのかい?」
伊達がソファに腰かけるついで、今まで立ったままの彼女に投げやりな言葉をかけた。
「はいっ、すみません!失礼します!」
ここに来てから何回も繰り返す「すみません」も、立ちっぱなしだったことも、
それは彼女の緊張ぶりを表しているのだが、もちろん伊達はそんなことに気付くはずもなく、ティーカップへ紅茶を注ぎ入れ始めた。
途端、鮮やかな香りがリビングを満たし始める。
「どうぞ」
押しやられてぞんざいに渡されたカップの紅茶は、深い深い褐色をしていて、カップの淵に沿って金色の輪がうっすらと見えるほどだった。
その色と香りだけで、彼女がいつも編集部で飲むティーパックのものと値段が違うのは、目に明らかだ。
柔らかなアッサムの香りに、ほんの少し緊張をゆるり解される。
一方伊達は、自分のマグへ同じように紅茶を注ぎ入れ、そして何とはなしに角砂糖入れを自分の方へ引き寄せた。
彼がその中の角砂糖を指で摘みあげるところで、アキの視線は自分のカップから彼へと引き寄せられる。
そして、一つ。
二つ。
み、三つ?
伊達は何のためらいもなく、自身のカップへ角砂糖を三つも投げ入れ、かき混ぜ、口にしたのだ。
彼女もそれにつられて自身のカップへ唇をつける。
本来であればそれは素晴らしく味が良い紅茶だったが、意識は上の空だ。
「………甘党で、いらっしゃるんですね…」
アキの言葉に、伊達の視線がカップから彼女へ舐めるように動いた。
「君も同じじゃないのかい」
「え?」
「……君、この前ここに来た時、ブラックコーヒーにミルクと砂糖を入れていた割に一口しか飲んでなかっただろう」
そう言ったきり、伊達の視線は再びテーブルへと戻った。
けれど、彼女はまだ目の前の伊達を見続ける。
…まさしく彼の言うとおりだ。
ただそれは、アキ自身ですら、あの日の緊張のせいで意識の片隅にあるような事柄だったのだが。
カップの湯面を見る。
そこには、予想外のセリフに目を見開いているアキ自身が映っている。
「あ…だからわざわざ紅茶にして頂いたんですね。お気遣いありがとうございます」
彼から返答はなかった。代わりに小さく紅茶を啜るだけ。
…この人は、紳士的、なんだろうか。
アキは緊張ごと飲み込むように、二口目の紅茶を啜る。
しかしその甘い考えは、今日と初対面時の彼を比較すると、簡単に打ち消された。
何しろ彼は、今日一度も彼女へ笑顔を見せていない。
目を笑わせない、薄い唇を引きつらせただけの薄っぺらい笑顔でさえも。
この部屋に来て、初めての沈黙が流れる。