砂糖漬け紳士の食べ方
後日。
伊達の部屋に入ったアキは、真っ先に驚きの声をあげた。
「お邪魔致します、…わ。どうしたんですか、これ」
玄関のすぐ脇にあったのは、事務机の天板ほどの大きさもあるキャンバスだった。
こちらに配送されてきたばかりなのか、プチプチに包まれてビニール紐でがんじがらめのまま。
そのキャンバスが毒々しい色遣いなのは分かるが、梱包のせいでどんな絵なのか傍目には分からなかった。
迎えてくれた伊達は、今日は仕事明けらしい、無精ひげを微かに生やしていて、しかしまるで生気のない顔でアキに振り返る。
「…ああ、それ? 贋作」
思いもよらない単語が、伊達の口から滑り落ちた。
「えっ」
「ついでだから、リビングまで持ってきてくれるかい」
アキが絵と伊達とを見比べるが、一方の彼は飄々としたまま、リビングへ行ってしまった。
玄関で、立ち止まる。
手にした絵は、立派な金縁がついているせいもあり、なかなかの重量だ。
リビングで早々にソファに座っていた伊達が、彼女から『贋作』を受け取る。
「桜井さん、紅茶淹れてきてくれるかな」
そう言われ、素直にキッチンへ向かった彼女の背に
ビリビリと容赦なく梱包を破き捨てる音がかぶさった。
数分後。
二つのカップとポット、それと中身をぎゅうぎゅうに詰めた角砂糖入れを持って戻ってくると
伊達の手によって、「どこかで見たかもしれない」と彼女の記憶をくすぐる絵が顔を出していた。
黒と赤。
その二色だけを使用し、人が人に手を差し伸べている場面の作品だ。
そうだ、これは── 伊達さんの作品だ。
先ほど、その伊達自身から『贋作』と呼ばれた絵のモチーフは、確かにアキの記憶にあった。
編集部で見ていた画集に載っていたものだ。
カップを二つ、丁寧に木製テーブルに置きつつも、しかしその絵から目が離せない。
「…これは、日展受賞後に出した絵なんだけど」
妙な沈黙に、伊達が先に口を開いた。
「まだ出回っていたらしくてね。……ああ、砂糖もらえる?ありがとう」
伊達の指が、やはり角砂糖を三つもカップへ投げ入れていく。
アキも自分の紅茶へ角砂糖を一つ落としながら、けれど頭には疑問という疑問が次々と降って湧いてきていた。
一口飲む前に、恐る恐る言葉を紡ぐ。
「…あの、伊達さん」
彼の視線が微かにアキへ向く。
「贋作が、出回っていたってことですか」
伊達はカップに口をつけてから「まあね」とだけ呟いた。実にあっさりと。
「あの、それは一体…ええと、どちらで購入されたんですか?」
「オークション。338万円で」
「さんっ…!」
ごく、ん。
飲み下そうとした紅茶が気管に入り、慌てて咳をする。
「よく出来た贋作だよね」と、彼は自嘲に似た笑いを零した。
「ただ残念ながら、私はこういう筆の使い方はしない。
色遣いも、…まあ、よく見ているなとは思うけれど」
アキは濡れた唇をぬぐいながら、彼の隣にある『贋作』にもう一度よく目を凝らした。
確かに、言われてみて注視しなければ分からないだろう。筆のタッチが本家より荒々しい。
…でもそれは『言われなければ分からない』違いだ。
パソコン越しにならもちろん、手にしても分からないほどの、本当に微かな差である。
「が、贋作に、さんびゃくまん…」
こぼれたアキの本音に、伊達がちらと視線をあげた。
「…日展受賞前、私の絵はほとんど売れなかった。
だが受賞後は一転して、その前に描いたどんな絵にも値段がつくようになった。
…しょせん美術の世界なんて、画家自身のブランドで値段が決まる側面もあるからね」
「でも…さんびゃく、まんえん…」
「君も絵を買う時には気を付けた方がいい。
金儲けとして、本人が描いてもいない絵を描いて、本物だと売り込む馬鹿もいるから」
伊達はまるで他人事のように、スラスラと忠告する。
まるで、他人事のように。
「伊達さん、これ、わざわざ高額な金額で引き取って、どうされるつもりですか」
「ん?ああ、…」
カチャリ、と彼のカップが神妙にソーサーへ置かれた。
おもむろに席を立ち、戻ってきた彼が手にしていたのは、1本の果物ナイフだった。
思わず身を引いたアキに何のフォローもしないまま、伊達は『贋作』を手にする。
「もちろん、処分するためだよ」
彼の乾いた言葉と、同時。
絵具がたっぷり塗られたキャンバスの布地は、あっけなく銀の刃によって貫かれた。