砂糖漬け紳士の食べ方


もう、彼はアキから視線を外すことはなかった。

揺れる前髪の奥。

いつもならクマがくっきりと刻まれる目に、静かに動揺するアキが映りこむ。



「…な、泣きそうって……そんなこと、ない、ですよ」

「本当にそうかな」



つっけんどんで、しかし限りなく正しい追及に、思わずアキが呼吸を止める。




見られていた。

中野に「お前がいてくれて良かった」と言われた、あの言葉に小さく傷ついた瞬間を。

「私だって怖かったのに」という、いかにも甘ったれた子供な想いを、喉の奥で潰したあの瞬間を。


伊達に。


この人に。




この人だけが、気付いた───。





アキはごくん、ともう一度大きく息を飲んだ。

閉じ込めていた感情は、あっけなく再び体の奥へ戻り、代わりに理性がそれに蓋をする。



「あはは、そんなことないですよ伊達さん。やだなぁ、心配性ですね」



とってつけたような明るい声と笑顔は、うまい具合にアキの表面へ張り付けられた。

社会人になってから身に付けた、護心術だ。



けれど、伊達の視線は変わらない。
とっさに奥深くへ飲み込んだアキの想いを、簡単に見透かすような目だった。



沈黙はしばらく続いた。

一度「そんなことない」と自分へ嘘をついた瞬間から、彼に本心を話すつもりは毛頭なくなっていたのに。



伊達がふいにため息をついて
そして、テーブル上にあったリモコンへ、手を伸ばした。





「…分かった。なら」




世界は一瞬で暗転する。

月明かりがリビングを照らし始める前に、彼の柔らかな声がふわりと浮かびあがった。




「目の前にいるのは、君が取材している画家ではなくて…」





ぼんやりとした月の光が、目を闇に慣れさせる。




「君より遥かに年上の男…ってことでどうかな」




瞬きを、3つ。

たったそれだけで、目の前の伊達が、ぼんやりと見えた。




くしゃくしゃの髪をして
やっぱり今日も、くたびれた灰色のトレーナーを着て

そして
ケンカなんか出来やしないくせに格好をつけたから怪我をした彼が

柔らかく彼女へ笑っている。





心臓をギュウと掴むような音がした。

それはアキの幻聴だったのだが、それでも呼吸を忘れさせるには十分だった。




…でも。


アキは唐突に思った。




でも、こんな所で泣かれたって、迷惑でしょう?
それも、年端もいかないような、恋人でもない若い女に。


唇を痛いほどに噛み締める。

痛い思いをすれば、涙は堪えられる気がしたのだ。



それでも歯はブルブルと震えた。

目はやたら瞬きを繰り返して、涙が滲むのを必死で抑えた。




アキのそれが分かったのか、伊達はその大きな掌で彼女の頭にそっと触れた。




呼吸が止まる。

全身の血液が、脈を打つ。




「…私の前でなら、泣いていいよ」




必死に感情へ覆ってきた理性とプライドは、その一言であっけなく崩れた。




ぐう、と呼吸が乱れる。

飲み込む。

心臓が、苦しい。

息が出来ない。



酸素を求めた末に大きく息を吸ったのと同時、
アキの右目から滴が1滴、じわり滲み出して、慌てて目元を擦る。


結局プライドが邪魔をして
想いを滲ませた涙は、その1滴しか外へ吐き出せなかった。



代わりに、呟く。

油断をしたら、声をあげて泣いてしまいそうだから


ゆっくり、ゆっくり。一音づつ。




「…伊達、さん。
ありがとうございます、本当は、嬉しかったんです、私。


伊達さんが、…来てくれて」





伊達は無言のまま、彼女の頭を片手で抱いた。

アキの鼻に、あのバニラの香りが届く。それに混じっているのは、微かな汗の匂いだ。





息を切らしてコートを乱した伊達を見た時に。

暗いリビングの中、今までで一番柔らかい彼の笑顔に。




アキが頑なに守っていた本音をそっと掬いあげる、穏やかな声に。


子供をあやすように髪を撫でていく彼の手に

今なら、このまま身を預けたいとまで思えた。




───このまま瞼を瞑って、意識を夢の中へ送れたら、どれだけ楽だろう。




針一本弾けてしまいそうな沈黙の中

緊張の糸は柔らかくほどけていって



瞼を瞑ってしまえば、すぐに眠気はやってくるほどに安堵を覚えた。










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