砂糖漬け紳士の食べ方
喫煙室に着くなり、二人で缶コーヒーを開けた。
その軽快な音に「今日は寒いねえ」なんて世間話を出す間もなく、中野は早々に言った。
「あの後、大丈夫だったのかよお前」と。
「あ、怪我?大丈夫、化膿はしてないみたい」
そう言ってガーゼを貼った右ひざを中野に見せようとしたが、「そうじゃねえよ」と一喝された。
喫煙室はたまたま人がいなかったのだが、小さな部屋はヤニで壁が茶色に染まっており
二人きりで話をするには何となくムードがない。
「あの先生のこと、送っていったんだろ。まさか部屋にあがったりしてないよな?」
ひそり。
耳元で囁かれた低い声に、アキは中野なりに気を遣っていることに気付いた。
中野は、そういうコトがあったのか心配しているのだ。
アキの視線が泳ぐ。
「…入ったけど」
「入ったぁ?真夜中に?あんな独身で得体のしれない男の家に?」
中野がこれでもかと大げさに口を開いた。
これが思いもよらないリアクションだったので、アキは慌てて付け加えた。
「手当してもらっただけだよ。それだけだって。何もされてないし、してないから」
「手当って…」
彼の視点が、ようやく彼女の右ひざへと移った。
「…ふうん」
マスコミ嫌いだとか、人嫌いだとか、悪評高いのが嘘みたいだ。中野が続ける。
アキは言葉詰まりを埋めるために、チビチビとブラックコーヒーを飲みこんだ。
慣れないその味は、舌の上を異物が転がっているような違和感だ。
しかし
「あれで彼女がいないのは変だ。もしかしてゲイか?」
中野の発言に、彼女はそれを思い切り鼻で笑った。
「なにそれ」
「だってそうだろ。相手がいくらお前だとはいえ、うら若き女子を部屋にあげておきながら何もしないんだぜ?」
「ちょっと待って中野くん、私への配慮を置き去りにしないでよ」
そもそも伊達さんは本当に紳士なんだよきっと。
アキはそう言いかけて、止めた。
本当に紳士?
…本当に?
何かが喉に引っかかった彼女は、乱暴に咳払いをし「じゃあ今度、中野くんの事を紹介しておいてあげる」と会話を切った。
しかし彼は喫煙室から動かず、会話を終えようとはしない。
「…それと桜井、お前さ」
「なに」
「あの先生のこと、好きにならない方がいいよ」
彼女の心配をしたあとの会話にしては、あまりにも唐突なセリフだった。
考えるより先に、感情がアキの唇へ出たくらいに。
何で?急にどうしたの?と、いたずらに茶化しても、中野が真剣に彼女を見る目は変わらなかった。
「あの先生、お前のいくつ上だよ?」
「…14、だね」
「一回り以上じゃんか。無理だって絶対」
「何で私が伊達さんのことを好きになるっていう前提なの?」
「んー…いや、普通に考えたらさ、この前みたいなことがあるとさ、
ドラマとかだと男のことが好きになったりするじゃん」
「うん、まあ、ドラマならね」
返される曖昧な返答に、中野が眉をしかめる。
自分の話の重要性をまるで分かってないとみた彼が、さらにアキへ詰め寄った。
彼の手にある缶コーヒーは、今やつぶされそうな勢いだ。
「俺はなぁ、同期として桜井を心配してるんだよ」
そう言われても、何をどのように心配されてるのか彼女には分からない。
確かに伊達とは14歳差で
そんでもって悪評高い画家で、偏屈で、独身で
…しかし、この全ての話は、ひとつの前提がないと成り立たない。
そう。彼女が伊達に恋焦がれる、という前提だ。
そしてそもそも、アキが「グラマラス」で「美人」で「かよわい」女性でなければ、中野の心配すら意味がないものになるのだ。
「ねえ、中野くん」
「なんだよ」
「そもそもさ、伊達さんみたいな人が、こんな私のことを相手にすると思ってるの?」
一回り以上年下で、別に美人でもない、器量が良くもない、どこかのお嬢様でもない、こんな娘に。
繰り広げられる彼女の自虐に、中野は曖昧に唸った。
しかしそれでも絶えず注がれる真剣な視線に、アキは苦笑いをして場をごまかすしかなかった。
「長い付き合いのお前には、普通の…いや、理想の恋愛をして欲しいんだよ」
それから中野は、既に空になっている缶を片手に熱弁を繰り広げた。
やれ、相手は少し年上がいい、なるべくなら安定的な職業に就いている男がいいだの
そんでもって浮気はしないでギャンブルには興味がない方がいいだの
彼が考える『理想の恋愛』論は、それはもう立派なものだった。
これが恋愛ドラマであれば、中野だって「私のことで親身になってくれる同期生」だ。
まさしく来週あたりに告白されそうな展開になるのだが…。
だがアキは随分前から知っている。
彼の女性の好みは、「可愛らしくて守ってあげたくなっちゃう子」であることを。
中野は、まさしく兄貴のような感情に酔いしれているのだろう。アキはそう確信している。
「はいはい、了解。ありがたく説法お受けしましたー」
不真面目な反応の彼女に、中野は思い切り唇をひん曲げた。不満が残るようだ。
「そう心配する前に、前みたいに私に仕事の後始末させないようにしてよ」
「うっ」
「戻ろう。仕事、あるんでしょ」
中野は缶をゴミ箱に投げ入れて、どこか煮え切らない様子のまま喫煙室を出た。
冷えた手には、やっぱり飲みきれなかったブラックコーヒーが残る。
給湯室のシンク台にこっそり捨てると、それは墨のように広がっていった。