砂糖漬け紳士の食べ方
伊達の作業部屋は、学校の美術室と同じ匂いがした。
木臭いというか、埃臭いというか…そんな匂い。
せっかく持ってきた紅茶の匂いが、あっという間にかき消される。
わざわざ作業部屋を分けて作った理由がこれだけでも分かった。
彼に怪我の手当をしてもらった夜に作業をしていた机のほかは、今回手をつけているキャンバスと小さな机、それと絵具や道具を置く棚くらいしか作業部屋には無かった。
相変わらず殺風景な部屋だ。
下塗りを終えたというキャンバスは、アキの下半身が全て隠されてしまうような大きさだった。
淡いオレンジ色で薄く塗り潰されている。
伊達は、立てたイーゼルの前に座り込んでいた。部屋の広さに見合わない、粗末な木の椅子だ。
「紅茶です」
「ああ、悪いね。その机に置いてくれるかい」
言いつつ、足元に置いていた油絵筆を溶き油でぐちゃぐちゃに濡らす。
と思えば、描き始める…。
手を止めないままだ。
アキは言われるままに紅茶を二つ、机に置く。
あれ、そういえばさっき下塗りが終わったって言ってたはずなのに…
伊達は既に、絵筆で色を乗せている。
「…伊達さんは、キャンバスに下書きしないんですか」
「んん…まあ、油絵の時はしないね。
代わりに、ツユほどに薄く溶いた絵の具で描くだけ」
「あ、それと」伊達が声を上げた。
「言うのを忘れていたが、制作現場の取材は一日30分。
じゃないと私の気が散るから」
えっ、30分!? 短い!
突然のルール制限に、アキは慌ててカメラバッグからカメラを取り出した。
大きいストロボをつけ、電源を入れて…。
「ではさっそく、2,3枚撮らせて頂きます」
彼からの返事はなかった。
それでもアキは構わずに、ファインダーを覗き込む。
ずしりと手に乗る重み。
四角く切り取られた、世界。
その中の画家は、視線を絶えずキャンバスの上を往復させ、止めて、絵筆を動かす。
筆を持つそのスラリとした指は油の汚れがあちこちにこびりつき、とてもキレイとは言えなかった。
けれど──。
アキは、自分の中にふわりと浮かび上がった情を潰すように、シャッターを切った。
一瞬の光が作業場を照らした。そしてまた、もう一度。
作業に集中する伊達が、ふと紅茶を飲もうと視線を机のカップに移した時に
アキは編集長の言葉を思い出した。
なにも、写真を撮るためだけにここへ来た訳ではない。
「伊達さん、お願いがあるんですが」
「んー、…なに」
そっけない返事だ。
「この展覧会、ご存じですか」
アキはさっそく、バッグから1枚の紙を取り出して伊達へ広げる。
伊達の筆がようやく止まった。
代わりに、クマが出来始めている目を2,3回往復させ…そしてまた、筆を滑らせる。
「知ってるよ」
「そうですか。それでですね…」
「今描いている絵を、その展覧会に出したい」
先読まれた思考にアキが目を見開いていると、彼はひたすらに筆を動かしながら言う。
「このタイミングでそういうのを見せるんだから、それしか無いだろう」
「…はい、そのとおりです」
「いいよ、別に。私もそう制作時間をかける方ではないから、間に合うだろうし」
「本当ですか!ありがとうございます」
まあ、でも。伊達は続けた。ふっと半笑いを浮かべて。
「この絵は君が依頼主だから、絵をどこに出そうが捨てようが君の自由だ」
言葉は、グサリと彼女の真ん中を貫いた。
忘れかけていた嫌なことを再び思い出させる、ベストタイミングだった。
キャンバス越し。伊達が彼女の顔をのぞき見て、薄く笑う。
「そうだろう?アキさん」
「え、ええ…そうですね…では展覧会に出すという事で…お願いします…」