この恋、永遠に。
 俺の念押しにも、医師は首を縦に振った。

 俺はフラリと立ち上がった。静かにドアを開け診察室を出る。中庭に出た。桜は見事に満開で、落ちてゆく陽に照らされ色を変えていく。 

 ―――美緒は、もう歩けない。
 あの日、小さな彼女が一生懸命背伸びをして、マフラーを巻いてくれたことを思い出す。
 俺が彼女にキスするたびに、背伸びして俺にしがみついていた。
 彼女は言わなかったが、俺との身長差を気にして、いつもヒールの高い靴を履いていた。
 そんな彼女は、もう、歩けない―――。
 俺は二度目の絶望を味わった。



 会社を出たのはいつもより早い夕方だったのに、美緒の病室に戻ったのはいつもより遅い深夜だった。既に彼女は寝入っていて、今日は一日彼女の声を聞けなかったことを悔やむ。
 彼女を起こさないようにそっとベッドに近づくと、月明かりに照らされたその愛らしい寝顔を眺めた。

 リハビリがきついのか、最近は寝入るのが早い。彼女は一度も弱音を吐かないけれど、たまに疲れた顔を見せるときがある。きっとつらいのだ。
 だけどそんなにつらいリハビリをしても、彼女は、もう二度とその足で歩けない。だったら彼女は今、何のために頑張っているんだ?
 俺の頬を熱いものが伝った。彼女には言えない。君はもう二度と歩けないだなんて、一体誰が口にできるというのだろう。
 静かに眠る彼女を見つめ、俺は黙って病室を出た。
 今は、一人になりたい―――。



 美緒に告げることが出来ないまま、時だけが過ぎていく。彼女は相変わらずつらいリハビリを頑張っている。いつか元通りになると信じて。
 俺はそれを見ているのがつらい。本当のことを言わず黙っている俺は、彼女を騙していることになるのではないだろうか。つらいリハビリをこれ以上強いてどうなるというのだ。

 一度様子を見に会社から病院に戻った俺は、美緒のリハビリ室を覗いた。可愛い顔をしかめ、必死に頑張る彼女を見ていると、目頭が熱くなってくる。こんな姿を彼女に見られるわけにはいかないのに。

「専務、大丈夫ですか?」

 秘書の顔をした沢口が俺を気遣う。俺は慌てて片手で目元を拭った。そっとリハビリ室を離れ、一つ向こうの休憩室にあるソファに腰を下ろす。沢口もやってきた。俺が促すと彼も隣に座った。

「………専務?」

 俺は沢口にまだ美緒の足のことを話していなかった。いや、沢口に、ではなく、まだ誰にも話していなかった。皆、美緒の足が元通りに回復すると信じて疑っていない。今も、俺の瞳が潤んだのは、美緒が必死に頑張る姿が痛々しくてそうなったと、彼は思っているだろう。勿論それも理由の一つであることに違いはないが、本当はそうじゃない。

「……この前、医者に言われたんだ」

 俺は座った両足の間で両手を組み、視線を下に落としたまま告白した。

「何をですか…」

「美緒の足は、回復の見込みがないと………彼女は、もう二度と……歩くことができない………と………」

「……そんな」

 沢口が息を呑む気配がした。俺同様、愕然としたのだろう。かける言葉が見つからないらしい。

「それなのに俺は、彼女に本当のことが告げられないでいるんだ。彼女は今でも、いつか歩けるようになると信じてリハビリを頑張っている。あんなにつらい思いをして、頑張っているんだ……」
 話しながら次第に声が震えていくのが分かった。俺は慌ててポケットからハンカチを取り出して広げると、目頭を強く押さえる。

「俺は……どうしたらいい?美緒に、残酷な現実を突きつけるのか?それとも本当のことを隠したまま、つらいリハビリを続けさせるのか?」

「……柊二」

「………誰か教えてくれないか……」

 沢口は俺を名前で呼んだまま、何も答えなかった。答えたくても、答えられないのだ。だってそうだろう?美緒を一番理解しているはずの俺でさえ、答えられないんだから。


 彼女の隣は居心地がよくて、彼女と一緒にいることを選んだ。
 彼女を幸せにすると誓ってプロポーズをした。
 だけど今、俺は彼女に何もしてやることが出来ない。俺はこんなにも無力だ。俺はただ、彼女の傍にいて、その笑顔を守りたいだけなのに……。

 窓の外では、すっかり緑に変わった桜の木の、最後の一枚が風に煽られヒラヒラと散っていった。


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