水簾~刻の雨音~
鳶との記憶
ちゃぷんっとお湯に浸かりながら、おばさん…いや、琉斗のお母さんである奈津(なつ)が翠の髪を梳いている。
蛍は今頃どうしているだろうか、心配してはいないだろうか、などと思っていると、つい朝の葛藤を思い出してしまった。
鳶と蛍。
2人の顔がちらつく。
鳶が生きていればこんなに悩まなかったのに。
少し鳶を恨めしく思いつつ、奈津に話しかける。
「おばさん、おばさんはどうしておじさんと結婚したんですか?」
「えぇ?」
突然の質問に驚いたように奈津が声を上げる。
翠は視線を落とした。
背中を向けているため、どんな顔をしているのかはわからないが、きっと驚いているのだろうな、と思う。
しばらくの間、沈黙があった。
が。
「…そうねぇ…正直な所わからないわね。」
「えぇ!?」
今度は翠が驚く番だった。
「わ…わからないって…?」
奈津は後ろから翠を優しく抱きしめ、諭すように言った。
「恋なんて落ちちゃったらあっという間よ。どこが好きとか考える暇もないくらい好きになるの。」
頭に浮かんだのは鳶の顔…ではなかった。
褐色の肌に黒い髪。
焦げ茶色の翼、金色の目。
ぱしゃんっとしぶきを立てて翠は手にしていたタオルを取り落とした。
「翠ちゃん?」
奈津の声にはっとする。
そして、振り向いて奈津を見つめる。
目から涙が零れた。
「翠ちゃん!?どうしたの!!」
奈津が驚いて目を見開く。
翠はふるえる唇を開いた。
「…わ…私…今…。」
奈津がポンポンと背をたたいてくれる。
「ゆっくり話しなさい。大丈夫だから。」
翠はゆっくり息を吸った。
目を閉じて吐き出すと、少し落ち着いたような気がした。
もう一度口を開く。
「…今、おばさんに言われて…好きな人を…鳶を思おうとした…。」
「…うん。」
「けどっ…!!」
そこまで言って翠は涙を落とした。
「浮かんだの…違う人だった…!!」
翠は顔を上げ、泣きながら奈津にうったえた。
「どうしよう!私、鳶のこと好きだったのに…っ!なのに…っ!」
奈津が自分を見つめている。
翠はすがるように奈津に言った。
「最低だっ…、私…!忘れるなんて…そんなことできないはずなのに…っ!」
涙する翠を見つめ、奈津が頭を撫でる。
そして、考えるように目を閉じると、ゆっくりと口を開いた。
「…翠ちゃん、私の話が終わるまで、黙って聞いてね。お願いよ?」
翠はこくん、と頷いた。
奈津はそれを確認して話し出した。
「…いなくなった人をずっと思い続けるのは、結婚して、子供ができて、年を取ってからで十分。そのまま思い続けることなんてないの。だから鳶は辛くても翠ちゃんを生かした。」
鳶は辛かったのだろうか?
翠はうつむいた。
「本当は言わないでって言われてたんだけど、言うべきだと思うから言うわね。鳶はね、処刑の前夜、あなたのところに行く前に、ここに来ていたのよ。」
翠は顔を上げた。
聞いたことのない話だった。
「翠を連れていきたい。けどできない。一緒に生きたい。…って1、2時間泣いてたかしらね。」
「うそ…。」
翠の目から涙が流れる。
「本当よ。あぁしてやりたかった、あそこに行きたかった、こんなことをしたかったって、そりゃもうこの世への未練たらたらでねぇ…。」
そばにいた琉斗も亮太も泣き出すし、もう大変だったんだから、と奈津は泣き笑いの表情になった。
翠は唇を震わせた。
鳶は自分の前では泣かなかった。
泣いてる自分を抱きしめて、最後の夜を過ごした。
熱くて冷たい夜だった。
体も心も燃えるように熱いのに、涙も空気も冷たかった。
「最期まで、翠ちゃんばっかりだったよ。こっちが呆れるくらいのろけて、こっちが悲しくなるぐらい泣いて。」
奈津の目からも涙が落ちた。
「…それでね、帰り際にポツン…と『幸せになって欲しい。』って。」
ズキンッと胸が痛くなった。
「けどねぇ…その後に『俺が幸せにしたかった。俺以外が翠を幸せにするのなんて耐えられない。』って。」
呼吸が苦しくなってくる。
のぼせたのだろうか?
「…最期に『けど翠が幸せなら、それでいい。けど、翠を傷つける奴がいたら、地獄に引きずり落としてやる。』って言って翠ちゃんのとこに。」
翠の肩がわなないた。
そして、絞り出すように言った。
「…話してくれてありがとうございます…。けど…。」
奈津を見上げ、泣き笑いの顔になって言った。
「…そんな話聞いたら…忘れられるわけないです。」
奈津が切なそうに翠の髪を撫でた。
「…鳶の気持ちを裏切ることになるよ?」
「…愛される方が幸せなんてこと、わかってる。それでも私は…。」
奈津が優しくほほえむ。
「…大丈夫。すぐにわかるさ。翠ちゃんは幸せになるよ。」
翠は顔を上げた。
けれど奈津は、ただほほえむだけだった。
蛍は今頃どうしているだろうか、心配してはいないだろうか、などと思っていると、つい朝の葛藤を思い出してしまった。
鳶と蛍。
2人の顔がちらつく。
鳶が生きていればこんなに悩まなかったのに。
少し鳶を恨めしく思いつつ、奈津に話しかける。
「おばさん、おばさんはどうしておじさんと結婚したんですか?」
「えぇ?」
突然の質問に驚いたように奈津が声を上げる。
翠は視線を落とした。
背中を向けているため、どんな顔をしているのかはわからないが、きっと驚いているのだろうな、と思う。
しばらくの間、沈黙があった。
が。
「…そうねぇ…正直な所わからないわね。」
「えぇ!?」
今度は翠が驚く番だった。
「わ…わからないって…?」
奈津は後ろから翠を優しく抱きしめ、諭すように言った。
「恋なんて落ちちゃったらあっという間よ。どこが好きとか考える暇もないくらい好きになるの。」
頭に浮かんだのは鳶の顔…ではなかった。
褐色の肌に黒い髪。
焦げ茶色の翼、金色の目。
ぱしゃんっとしぶきを立てて翠は手にしていたタオルを取り落とした。
「翠ちゃん?」
奈津の声にはっとする。
そして、振り向いて奈津を見つめる。
目から涙が零れた。
「翠ちゃん!?どうしたの!!」
奈津が驚いて目を見開く。
翠はふるえる唇を開いた。
「…わ…私…今…。」
奈津がポンポンと背をたたいてくれる。
「ゆっくり話しなさい。大丈夫だから。」
翠はゆっくり息を吸った。
目を閉じて吐き出すと、少し落ち着いたような気がした。
もう一度口を開く。
「…今、おばさんに言われて…好きな人を…鳶を思おうとした…。」
「…うん。」
「けどっ…!!」
そこまで言って翠は涙を落とした。
「浮かんだの…違う人だった…!!」
翠は顔を上げ、泣きながら奈津にうったえた。
「どうしよう!私、鳶のこと好きだったのに…っ!なのに…っ!」
奈津が自分を見つめている。
翠はすがるように奈津に言った。
「最低だっ…、私…!忘れるなんて…そんなことできないはずなのに…っ!」
涙する翠を見つめ、奈津が頭を撫でる。
そして、考えるように目を閉じると、ゆっくりと口を開いた。
「…翠ちゃん、私の話が終わるまで、黙って聞いてね。お願いよ?」
翠はこくん、と頷いた。
奈津はそれを確認して話し出した。
「…いなくなった人をずっと思い続けるのは、結婚して、子供ができて、年を取ってからで十分。そのまま思い続けることなんてないの。だから鳶は辛くても翠ちゃんを生かした。」
鳶は辛かったのだろうか?
翠はうつむいた。
「本当は言わないでって言われてたんだけど、言うべきだと思うから言うわね。鳶はね、処刑の前夜、あなたのところに行く前に、ここに来ていたのよ。」
翠は顔を上げた。
聞いたことのない話だった。
「翠を連れていきたい。けどできない。一緒に生きたい。…って1、2時間泣いてたかしらね。」
「うそ…。」
翠の目から涙が流れる。
「本当よ。あぁしてやりたかった、あそこに行きたかった、こんなことをしたかったって、そりゃもうこの世への未練たらたらでねぇ…。」
そばにいた琉斗も亮太も泣き出すし、もう大変だったんだから、と奈津は泣き笑いの表情になった。
翠は唇を震わせた。
鳶は自分の前では泣かなかった。
泣いてる自分を抱きしめて、最後の夜を過ごした。
熱くて冷たい夜だった。
体も心も燃えるように熱いのに、涙も空気も冷たかった。
「最期まで、翠ちゃんばっかりだったよ。こっちが呆れるくらいのろけて、こっちが悲しくなるぐらい泣いて。」
奈津の目からも涙が落ちた。
「…それでね、帰り際にポツン…と『幸せになって欲しい。』って。」
ズキンッと胸が痛くなった。
「けどねぇ…その後に『俺が幸せにしたかった。俺以外が翠を幸せにするのなんて耐えられない。』って。」
呼吸が苦しくなってくる。
のぼせたのだろうか?
「…最期に『けど翠が幸せなら、それでいい。けど、翠を傷つける奴がいたら、地獄に引きずり落としてやる。』って言って翠ちゃんのとこに。」
翠の肩がわなないた。
そして、絞り出すように言った。
「…話してくれてありがとうございます…。けど…。」
奈津を見上げ、泣き笑いの顔になって言った。
「…そんな話聞いたら…忘れられるわけないです。」
奈津が切なそうに翠の髪を撫でた。
「…鳶の気持ちを裏切ることになるよ?」
「…愛される方が幸せなんてこと、わかってる。それでも私は…。」
奈津が優しくほほえむ。
「…大丈夫。すぐにわかるさ。翠ちゃんは幸せになるよ。」
翠は顔を上げた。
けれど奈津は、ただほほえむだけだった。