水簾~刻の雨音~
雨音
蛍は丘を駆け下りた。
目の前の階段を降りれば琉斗の家だ。
亮太の言うとおりでしゃくだが、足早になってしまう。
階段を駆け下り、扉を叩く。
「はい?」
女の声がして、蛍は早口で言った。
「翠を迎えにきた。ここにいるか?」
しばらくばたばたとしていたが、やがて扉が開く。
「蛍?」
出てきた翠を見て、その少しの距離にもどかしくなり、傘から手を離して抱きしめた。
「けっ…蛍…!?」
翠の驚いた声がする。
温かい…いや、熱い。
湯上がりだろうか?
ほのかにいい香りもする。
「…心配した。」
静かにそう言うと、翠が腕の中で身じろいだ。
「うん…ごめん。」
翠の紫水晶がかすかに揺れる。
蛍は腕をほどいて傘を取った。
そして、ぱっと広げる。
と、袖をちょん、と引っ張られた。
「なんだよ?」
不思議に思って言えば、翠が少し赤くなった。
「あの…傘一つ?」
言われて気づいた。
慌てて飛び出してきたため、傘を一つしか持っていない。
「あ、ごめん。忘れたわ。まぁ、傘も大きいし、入ってけ。どうせ帰る場所同じなんだし。」
あっさりとした蛍の態度に驚きを隠すことなく、翠は目を瞬かせた。
だが、別に嫌というわけでもないらしい。
躊躇いなく入ってきた。
そのままゆっくりと歩き出す。
肩や二の腕が触れ合い、あまりの近さに心臓が鳴る。
沈黙が流れた。
雨粒が傘にぶつかる音だけが響く。
心地よいような、気まずいような、不思議な沈黙たった。
そして、家に着く直前のことだった。
ポツン…と翠が言った。
「…2人だけの世界みたい。」
静かに響いたその言葉に、蛍は立ち止まった。
翠も立ち止まる。
「…蛍、どうかしたの?」
蛍は傘の中で翠に向き合い、見下ろした。
そして、傘を持っていない方の手で、その髪に触れ、頬に触れる。
首筋、鎖骨、と下ろしていき、二の腕を掴むと優しく引き寄せる。
紫色の瞳が真っ直ぐこちらを向いている。
不意に触れたくなって額を合わせた。
すると、翠が至近距離で小さく呟くように言った。
「…私は鳶が好きだよ。」
それが自分に向けられた、拒絶の言葉だと気づくのに、時間は必要なかった。
彼女が自分を傷つけないように最大限気を遣った言葉だということも。
蛍は翠と額を合わせたまま目を閉じた。
(どうやら俺は、相当に難攻不落で底の見えない恋に堕ちてしまったらしい。)
もう認めざるを得ない。
翠が好きだ。
このままどこかに連れ去ってしまいたいくらいに。
蛍はゆっくりと顔を傾けた。
薄く目を開くと、翠はまつげを伏せている。
(…嫌なら拒めよ、バァカ。)
心の中で「嫌がらなかったから。」といいわけをする。
そして、ゆっくりと、優しく、唇を重ねた。
聞こえるのは、傘にぶつかる雨粒の音と、心臓の音。
感じるのは、雨の湿り気と、翠の体温。
薄く開いた視界で、翠が目を閉じた。
それを確認して蛍は目を閉じ、翠を抱きしめた。
水の簾(すだれ)が2人の存在を隠す。
きっと誰も見ちゃいない。
それならいっそ、この刻の雨音が時を刻むのをやめるまでだけでも───。
降り止むことのない雨が、2人を世界から覆い隠していた。
目の前の階段を降りれば琉斗の家だ。
亮太の言うとおりでしゃくだが、足早になってしまう。
階段を駆け下り、扉を叩く。
「はい?」
女の声がして、蛍は早口で言った。
「翠を迎えにきた。ここにいるか?」
しばらくばたばたとしていたが、やがて扉が開く。
「蛍?」
出てきた翠を見て、その少しの距離にもどかしくなり、傘から手を離して抱きしめた。
「けっ…蛍…!?」
翠の驚いた声がする。
温かい…いや、熱い。
湯上がりだろうか?
ほのかにいい香りもする。
「…心配した。」
静かにそう言うと、翠が腕の中で身じろいだ。
「うん…ごめん。」
翠の紫水晶がかすかに揺れる。
蛍は腕をほどいて傘を取った。
そして、ぱっと広げる。
と、袖をちょん、と引っ張られた。
「なんだよ?」
不思議に思って言えば、翠が少し赤くなった。
「あの…傘一つ?」
言われて気づいた。
慌てて飛び出してきたため、傘を一つしか持っていない。
「あ、ごめん。忘れたわ。まぁ、傘も大きいし、入ってけ。どうせ帰る場所同じなんだし。」
あっさりとした蛍の態度に驚きを隠すことなく、翠は目を瞬かせた。
だが、別に嫌というわけでもないらしい。
躊躇いなく入ってきた。
そのままゆっくりと歩き出す。
肩や二の腕が触れ合い、あまりの近さに心臓が鳴る。
沈黙が流れた。
雨粒が傘にぶつかる音だけが響く。
心地よいような、気まずいような、不思議な沈黙たった。
そして、家に着く直前のことだった。
ポツン…と翠が言った。
「…2人だけの世界みたい。」
静かに響いたその言葉に、蛍は立ち止まった。
翠も立ち止まる。
「…蛍、どうかしたの?」
蛍は傘の中で翠に向き合い、見下ろした。
そして、傘を持っていない方の手で、その髪に触れ、頬に触れる。
首筋、鎖骨、と下ろしていき、二の腕を掴むと優しく引き寄せる。
紫色の瞳が真っ直ぐこちらを向いている。
不意に触れたくなって額を合わせた。
すると、翠が至近距離で小さく呟くように言った。
「…私は鳶が好きだよ。」
それが自分に向けられた、拒絶の言葉だと気づくのに、時間は必要なかった。
彼女が自分を傷つけないように最大限気を遣った言葉だということも。
蛍は翠と額を合わせたまま目を閉じた。
(どうやら俺は、相当に難攻不落で底の見えない恋に堕ちてしまったらしい。)
もう認めざるを得ない。
翠が好きだ。
このままどこかに連れ去ってしまいたいくらいに。
蛍はゆっくりと顔を傾けた。
薄く目を開くと、翠はまつげを伏せている。
(…嫌なら拒めよ、バァカ。)
心の中で「嫌がらなかったから。」といいわけをする。
そして、ゆっくりと、優しく、唇を重ねた。
聞こえるのは、傘にぶつかる雨粒の音と、心臓の音。
感じるのは、雨の湿り気と、翠の体温。
薄く開いた視界で、翠が目を閉じた。
それを確認して蛍は目を閉じ、翠を抱きしめた。
水の簾(すだれ)が2人の存在を隠す。
きっと誰も見ちゃいない。
それならいっそ、この刻の雨音が時を刻むのをやめるまでだけでも───。
降り止むことのない雨が、2人を世界から覆い隠していた。