水簾~刻の雨音~
距離
 翠はため息をついた。

『…愛される方が幸せなんてこと、わかってる。それでも私は…。』

 本気で言ったくせに、蛍に抱きしめられた途端、すべてが吹き飛んだ。

 この人なら、と思ってしまった。

 口づけさえ、受け入れてしまった。

 鳶を忘れたくないのに。

 愛していたいのに。

 また、愛されることへ逃げてしまった。

 しかも、最後に言われた言葉が頭から離れない。

『次好きになるなら俺にしろ。俺以外、好きになるな。』

 強引な言葉。

 粗暴でがさつ。

 かっこつけだし、なんかむかつく。

 それでも、ソファーで寝ている蛍がいないと、こんなにも世界はつまらない。

『いなくなった人をずっと思い続けるのは、結婚して、子供ができて、年を取ってからで十分。そのまま思い続けることなんてないの。』

 奈津の言葉が蘇る。

 それでも、忘れてはいけない気がした。

『鳶の気持ちを裏切ることになるよ。』

 本当にそんなんだろうか?

 鳶は自分と他の男が結ばれることを望んでいるのだろうか?

 仮に蛍とうまくいったとして、鳶は喜ぶだろうか。

 祝福してくれるのだろうか。

『けどねぇ…その後に『俺が幸せにしたかった。俺以外が翠を幸せにするのなんて耐えられない。』って。』

 ほら。

 鳶だって本当は望んじゃいない。

 翠はまつげを伏せた。

 だったら、蛍には会わない方がいい。

 惹かれる前に、終止符を打とう。

 翠は立ち上がって扉を開けた。

 リトがついてくる。

 気分が晴れない。

 どんなに前を見ても、何も見えない。

 そんな感覚。

 翠は樹がいつもいる、鰐蛇の元へ向かった。

 

 案の定、樹はそこにいた。

「…樹さん。」

 声をかけると、樹はニカッと笑って振り向いた。

「お、元気してたか?」

 岩戸の外にあるこの池は、客人から預かったクローフィを放しておく場所だ。

 つまり、特に用がなければ、餌の時間以外誰も来ない。

「…樹さん、頼みがあります。」

「なんだ?」

 翠は口を開いた。

「…蛍と距離を置きたいんです。説得してくれませんか?」

 樹が驚いて持っていたブラシを取り落とした。

 そして、おそるおそるというように「なんでだ?」と聞く。

 翠はまつげを伏せて言った。

「…忘れたくない人がいるんです。」

 しばらくの沈黙があった。

 やがて、樹はブラシを拾い上げ、鰐蛇のウロコをこすりながら言った。

「…俺から言っても無駄だと思うがな。」

「…距離を置きたい、と言っていたと伝えてくださるだけでいいです。」

 翠は樹を見つめた。

 樹も翠を見つめる。

 …やがて、翠が引き下がることはないと確信したのか、樹は渋々うなずいた。

 それを見て翠は頭を下げ、今度こそ岩戸へと歩き出した。



「はぁっ!?岩戸に泊まり込む?」

 琉斗が素っ頓狂な声を上げた。

「…ちょうど鹿兎が出産だし…。」

「それにしても……って、ちょうどってなんだよ?まるでほかに理由があるみたいじゃねぇか。」

 翠はギクリとして、視線を逸らした。

「…蛍とかいうやつのせいか?」

 勘が鋭くて困る。

 いや、わかりやすいのだろうか?

 翠は首を振った。

「ううん、私が悪いの。」 
  
 翠は作り笑いをして、奥へと進んで言った。 

 階段を下り、岩戸の奥へと進む。

 リトがトコトコとついてくる。

 甘い麝香の香りがする。

 それだけで、蛍の顔が浮かぶ。

 鰐蛇の横を通り過ぎると、初めて会った時を思い出した。

 それだけで、切なくなる。

 けど、この感情に呑まれれば終わり。

 翠は追い払うように首を振った。

「…ただの相談相手…。」
  
 呟くと、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなった。

 それでも譲れない。

 これは翠の意地だった。

 翠は鹿兎の前に腰を下ろし、膝に顔を埋めた。

 目の裏に浮かぶのは蛍の姿。

 翠は唇に指を当てる。

 はぁ、とため息をついた。

 蛍が離れない。

「…蛍…。」

 名前を呼ぶと苦しくなって、翠は目を閉じた。
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