水簾~刻の雨音~
出逢い
「翠(すい)、薬湯は作れたか?」
「今やっているところです。もう少し待ってください…。」
「翠、ヤギと羊のクローフィの様子がおかしいんだ。」
「っ…すぐ行きます!」
がやがやと岩戸の中で男たちが騒いでいる。
ここで仕事ができるのは、力があり、なおかつ臨機応変に動ける、15歳以上の健康な男のみ。
華奢で小柄な翠には少し厳しい職場だった。
岩戸は村の裏手にあり、普段村人は決して立ち入ることはできない。
男たちは夜明けとともに目覚め、ここにやってくる。
村人は決して岩戸のことを口外してはいけない。
場所を話した者には、罰が下される。
もちろん、場所を知ってしまった者は早急に暗殺される。
それが『掟』だ。
翠は岩戸で獣の医術師として働いていた。
女はただ一人。
特別扱いされる反面、無力と言われる。
無力と言われる反面、ここにいてくれなければならない、と言われる。
矛盾した毎日。
その証拠に、翠の髪には漆黒に一束だけ金髪が混じっていた。
その目もアメジストパープルであった。
医術に長け、頭も良く、身体能力…特に脚力に優れていた。
翠は桶に手を突っ込んだ。
クローフィの粘液が桶の水に溶けていく。
翠は立ち上がった。
キツネとリスのクローフィが鳴いている。
「リト…。」
リトという名前のこのクローフィは、母親から託された最後のクローフィだった。
薬湯を作りながら翠は外を見つめた。
「…なんか騒がしいな…。」
村人はいつもならこんなに騒がしくない。
まず、岩戸まで声が聞こえてくることはない。
リトの頭をなで、翠は立ち上がった。
「ちょっとだけ、のぞいてみよっか…。」
呟くように言って翠は歩き出した。
防水のブーツがこつこつと音を立てる。
岩戸の外に出ると、男たちが群がっていた。
その中に親しい後ろ姿を見つけて駆け寄る。
「琉(りゅう)、どうしたの?」
幼なじみの琉斗だ。
サラサラの黒髪を光らせて振り向く。
見た目はすごく爽やかだ。
そう、見た目は。
「翠じゃん。なんか国から役人が来てんだとさ。」
「それがどうかしたの?」
役人くらい、来てもおかしくはない。
翠は首を傾げた。
「なんでも色男がいるらしいんだよ、隣に。」
なんだ、そんなことか。
翠はリトを頭に乗せながら思う。
「うわぁお、確かにいい男だ。真っ黒でおっとこらしくていんじゃねぇのー?」
琉斗がへっと笑った。
いっそ清々しいくらいに腹黒いのが琉斗のイイところだと思う。
いや、欠点といおうか。
誰にでも欠点ぐらいある、と翠は思い直した。
男たちの間からのぞくと、なるほど。
褐色の肌に黒い髪、鷹のような鋭い眼光に満ちた金色の目の男がいた。
年は翠と同じくらい。
少しだけ大人びて見えた。
反襦袢(はんじゅばん)に腰紐をし、七分丈のズボンをはいている。
翠はシャツに短パン、その下に長めの靴下とブーツという、いかにも動きやすそうな格好にパーカーを羽織っていた。
「翠っ!!翠はいるかっ!?」
唐突に呼ばれて驚いて振り向く。
つま先立ちをしていたためよろけたが、そこは踏ん張って立て直した。
「はい。」
そこには長老が立っていた。
「あぁ、ちょうどよかった!あの方々の鰐蛇(がくだ)が病にかかっている!!すぐに処置を!!」
「はいっ!」
言われるなり翠は駆け出した。
みずたまりの水が跳ね、水鞠が飛ぶ。
翠は丘を駆け下りていった。
体長は七メートルはあろうか。
おそらく翠の小さな頃に買い取られた鰐蛇なのだろう。
青い縦長の瞳孔に翠は引きつけられた。
「あんたがこの村の医術師か…?」
がたいのいい大男が驚いたように言った。
翠は頷いた。
「…頼みがある。鰐蛇が動かないんだ。この鰐蛇は長年戦場で活躍してきた。だがあとすこし、共に戦いたい。私の片腕のようなものだからな。」
男はそっと鰐蛇を撫でた。
蛇のような体に鰐(わに)の鱗。
鰐の牙。
ねっとりとした粘液に、鼻につく獣の匂い。
「私は樹(いつき)。そっちの黒っぽいのは蛍(けい)だ。見たとこあんた、蛍と同じくらいだろう?いくつだ?」
「あ…17歳です…。」
鰐蛇の粘液をじっくり観察していた翠は、慌てて答えた。
「おぉ、ちょうど同い年だな。仲良くしてやってくれ。私たちは今月いっぱいはここにいるから。」
「……粘液が薄くなってる…。」
「おーい…?」
「あ、はい。何でしょう。…それよりこの鰐蛇、今朝なに食べました?」
「あ…えぇと…肉…?」
「何の?」
「…や…山羊だが…。」
普通だな、と呟き、そしてもう一度肌に触れる。
固くごわついた鱗に触れる。
触れてみる。
「…え…?」
先ほどと逆側の鱗にはべっとりと粘液がついている。
鰐蛇は怪我をすると粘液がたくさんでる。
薄いときは体調不良。
そこまではいい。
だが、なぜ左右で粘液の濃さが違うのかがわからない。
「きゅっ!」
「あ、こら、リト!出てこないで…。」
「きゅきゅっ!」
もう…と呆れながら鰐蛇を撫でる。
「それにしても大きな鰐蛇だな。」
感心したように(いつの間にそこにいた)琉斗が鰐蛇に触れ…。
「ぐわぁぁああ!!!」
鰐蛇が牙を向いた。
高く跳躍する。
「うわぁぁああ!!!」
「琉斗っ!!!」
と、琉斗の前に蛍が躍り出た。
翠は思い切り息を吸い…。
「──────っ!!!」
吠えた。
びりびりと空気が震えた。
音のない声が広がっていく。
鰐蛇の縦長の瞳孔が細く縮まり、筋肉という筋肉が固まった。
ドゴォォオオオン…!
「大丈夫ですか!?」
翠は蛍に駆け寄って、前に倒れている鰐蛇を見つめた。
「……ケガ…。」
真っ赤な血が鰐蛇から流れ出していた。
「そっか…ケガを治そうとして左右で粘液の濃さが違ったんだ…。」
鰐蛇の粘液には血を止める成分が入っている。
翠はパッと駆け出した。
「あの娘は…?」
樹は驚いたように目を見開いている。
「翠、といいましてな。この村の獣医でして…。」
「獣医…。」
「村に残されたパープルサクラの娘です。」
パープルサクラ。
神聖な紫色という意味だが、実際はパープルス アクアといい、水の民という意味だ。
翠はぐるぐると鰐蛇に包帯を巻いている。
「きれいな瞳だ。」
どこかミステリアスなその容姿に樹は少なからず惹かれているらしい。
「…はい。できました。かこの鰐蛇を池に放しておいて。」
「「「はいっ!」」」
翠は樹の前まで歩いてくると深々と頭を下げた。
「愚かな幼なじみを許してください。蛍さんにお怪我はありませんでしたか?」
樹は人なつっこい笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だ。あやつはそのくらいでは死なん。」
「…そうですか。なら良かった。」
翠は立ち上がった。
「念のため、蛍さんのところへ行ってきます。鰐蛇の唾液には毒が含まれるので。」
「おぉ、それはありがたい。」
翠は宿に向かって歩き出した。
「あっ…リト…!」
「きゅっ!」
「リト、あんまり先行かないで。」
とたとたと駆けていくリトに慌てて駆け出す。
たしかに唾液には毒が含まれている。
けど、それだけじゃない。
あの蛍という少年。
鷹のような目。
なにか、なにか感じたのだ。
人間であり、人間ではないような…。
「きゅっ!」
リトが走り去る。
「あっ…!」
翠は慌てて駆け出して…。
ドンッ!!
「きゃっ!!」
誰かにぶつかってよろける。
人ってすごい。
倒れてもうだめだって思うと、景色がゆっくり傾いて見えるらしい。
「──っ!!」
もうだめだと目をつむった。
が。
「………?」
痛くない。
「あ…れ…?」
ゆっくりと目を開いてみる。
「…大丈夫か?」
「あっ…蛍さん…。」
「蛍でいい。同い年らしいから。」
「え…そうなんですか…?」
蛍は呆れたように眉を下げた。
「なんだ、聞いてなかったのか?」
「あ…ごめんなさい…。私、クローフィのことになると周りが見えなくなるみたいで…。」
「まぁ、いいさ。…翠…だっけか?」
「あ、はい。」
「さっきはありがとな。」
そうほほえまれて目を見開く。
「ああっ!!そうだ、私…。」
あわてて起きあがり蛍を見る。
金眼が自分の紫眼を真っ直ぐに見つめている。
「なんだよ、ジロジロ見やがって…。」
「やっぱりいいです。元気そうなので。」
「はぁ…?」
と、ふわりとなにかの香りがした。
「…ん…?」
鼻先をかすめるにおいに首を傾げた。
(なんだっけ…?この匂い…。)
「どうかしたか?」
「え…あ…何でもないです…。」
なんの香りだったか。
ほんのり甘い、この香りは。
嫌な予感がしてならない。
「敬語もいいよ。」
突然話しかけられてはっとする。
「あ、はい。」
「今も敬語使ってるってわかってる?」
「…敬語はやめません。」
なぜだかわからないが、警戒を解くことができなかった。
「…ぷっ…。」
不意に笑い出した蛍に眉をひそめる。
「…なんなんですか…。あっ…リト…!」
川沿いを歩きだしたリトを追いかけ走り出す。
「…おい。って、そいつ!!なんの…!?」
驚いたように目を見開いた蛍に翠は冷静に答えた。
「リスと狐です。」
「へぇ…。」
感心したようにぼやき、蛍はリトを撫でた。
「ぎゅいっ!!」
「ははっ。警戒されてますね。」
「…笑うな。」
「ぎゅいっ!!ぎゅぎゅぅ!!!」
「…しかも必要以上に。…リト、落ち着いて。」
リトを叱るが、全く警戒を解こうとしない。
「もう…。よいしょっ。」
リトを頭の上に乗せ、ため息をつく。
そして、蛍を見て立ち上がった。
「…私は仕事に戻ります。」
「隙のない女だな。」
「……え?」
ふいに呟かれた言葉に立ち止まる。
「さっきから、俺に対して全く警戒をといていないだろ?」
「……。」
「…違うか?」
「違わない…。」
蛍は目を細めた。
「…なぜだ?」
翠はため息をついた。
「…あなたからは、なにか…なにかの香りがする。」
「……。」
「…なんの香りだったかわからないけど…なにか…。」
「…ではないにおい、か。」
「…え?」
今なんて…?
そう聞こうとして口を開きかけた途端だった。
「翠ーーーっ!!」
「っ、琉斗!?」
その緊迫した声にただならぬものを感じ、翠は振り向いた。
「大変だ!あの鰐蛇が…っ!!」
「え…!?」