水簾~刻の雨音~
過去の楔
『翠、見ろよ。春の水は温かいからクローフィたちが集まってる。』
「たすけてっ!!誰か!誰か鳶を──!!」
鰐蛇が大きく口を開き………血飛沫が飛び散った。
いつの間にか外は夕闇に包まれていた。
なぜだかわからない。
だが、何もする気になれなかった。
いや、理由なんてわかってる。
自分が許せていないのだ。
『鳶』のことを…いや、『鳶』が死んだ理由を。
コンコン…。
不意にした音に立ち上がる。
「……はい。」
「俺だ。蛍だ。」
蛍…?
なぜこんな所に…?
不思議に思いながら戸を開ける。
「よかった。やっと出てきた。」
その呆れたような、安心したような顔に首を傾げる。
「…お前、3日間飲まず食わずで閉じこもってたんだよ。」
「3日…?」
「おぅ。」
どうりで体が重いわけだ。
完全に鈍っている。
「…ごめんなさい…寝てたみたい…。」
「3日間?」
「うん。」
「飲まず食わずで?」
「……。」
こっくりと頷くと、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、蛍が腹を抱えている。
「凄まじく頑固な女だな。」
「…そんなんじゃない。」
蛍は肩をすくめた。
そして翠を見つめる。
頭には、先ほどまで一緒にいた女たちの話が浮かんでいた。
「あぁ、あの子?…翠はね、母親と恋人を村の『掟』で亡くしてるのよ。」
「そうそう、それで心の支えになってやったのが鳶。あの子の恋人だったの。」
「その鳶も…ねぇ…。」
女たちが大袈裟にため息をつく。
「…去年の春、あんたたちみたいな輩の鰐蛇を死なせちまったから、命を持って償ったんだ。」
翠は何も言わない。
蛍はポツリと言った。
「…俺さ、孤児なんだよ。」
翠が顔を上げた。
「…だから、よくわかんねぇ。お前のこと。けどさ。」
蛍は真っ直ぐに翠の瞳を見つめた。
「…止まってちゃダメだろ…?」
焦げ茶色の髪を揺らし、青年は言った。
『なぁ、翠?春ってなんかいいよな。俺さ、春夏秋冬の中で一番春が好きだよ。』
──ごめんなさい。
私は春が嫌い。
あなたを亡くした季節だから…。
「立ち止まってちゃ…ダメだろ…?」
(知ったような口きかないで。)
翠は蛍を見据えた。
「…私だって…好きでいつまでも立ち止まってるわけじゃない。」
甘い香りが鼻をくすぐる。
あぁ、またこの匂いだ、と翠は思う。
一方、蛍の方は思い返していた。
『…最初はあの子も前向きだったさ。次の男を見つけて幸せになろうとした。あの容姿だからね。『鳶』が死んで、男は好機とばかりに寄ってきたよ。…けど、なんでだろうね。あの子は男どもの求婚を全部凪払って、今もああしているんだ。』
蛍は翠を見つめた。
「…なぁ、お前はどうしてそんなに冷めているんだ?」
「…さぁね。わからない。」
コトリ、と翠がカップを置いた。
そしてゆっくりと口を開いた。
「…笑えるわけがない。」
「え?」
蛍は眉をひそめた。
「…大好きだった…。愛していたの…。」
翠の目から涙が落ちる。
「…あいつがクローフィに喰われたとき、私は一緒に喰われようとした。」
透明な涙が紅茶に落ちる。
「…けど…あいつは許してくれなかった…共に死ぬことを。」
蛍はうつむいた。
この少女は死にたくて泣いているのだろうか?
それとも…。
「私に…生きろと言った…許せないの…!あいつがいなくなっても…っ…平気な顔して回り続けるこの世界が…!!」
翠は嗚咽を漏らす。
「…あいつのいない世界なんて…私にとってはただのガラクタでしかなかったのに…!!!」
翠がわあっと泣き出した。
蛍は黙ってそれを見つめる。
当たり前だ。
愛する人に死んで欲しいわけがない。
『鳶』は最善の未来を選んだだけ。
「鳶が死んだとたん、男たちが言い寄ってきた……。」
蛍は翠を見つめた。
翠は目を見開いたまま涙を流す。
その感情はもう、憎しみに近い。
「…あいつらは……まるで鳶が死んだことを喜ぶみたいに寄ってきた…!許せなかった…!だから…!!!」
蛍はポツリと呟いた。
「求婚をすべて凪払ったと?」
翠はしばらく黙っていたが、こっくりと頷いた。
「…けど、私の幼なじみで鳶の親友だった琉斗は違った。…一緒に泣いてくれたの。慰めてくれた。だから、村の男たちの中で、アイツだけは特別。」
何が?と聞きそうになった。
婚約してもいいということか?
翠はゆっくりと瞳を上げた。
二つのアメジストが揺れる。
「…それと、蛍も特別。…私の瞳の色も変な髪のことも気にしないでこうして話を聞いてくれる。」
コトリ、と何かが動いた。
「………?」
「…どうかした?」
「……あ…いや、何でもねぇよ。」
「そ。」
翠が立ち上がる。
「…どこか行くのか?」
「仕事。ここ、好きに使ってていいからね。リト、行くよ。」
「きゅっ!」
どうやらベッドの下にいたらしいリトが埃まみれで飛び出てくる。
「ぎゃ!リト!ストップ!!頭に乗らないで!体洗って!!きゃぁぁぁあ!!」
「ぷっ…!」
「笑わないで!!」
と、あれ?と蛍は首を傾げた。
…表情が格段に豊かになっている。
なぜだろう。
すべて話して気が楽になったのかもしれない。
冷めた視線も、真一文字たった唇も、いくらかマシになって…いや、だいぶ解消された。
もぉ!と憤慨しながら歩いていく翠を見つめて息をつく。
「……変な奴。」
「それはこっちのセリフ!!!」
げ、聞こえてたのか、と蛍は苦い顔をする。
と、翠が…笑った。
「…けどありがと。」
コトリ…。
(…まただ。)
何かが動き出す気配。
止まっていた歯車と、誰との噛み合わなかった歯車が、再び回りだした。
「たすけてっ!!誰か!誰か鳶を──!!」
鰐蛇が大きく口を開き………血飛沫が飛び散った。
いつの間にか外は夕闇に包まれていた。
なぜだかわからない。
だが、何もする気になれなかった。
いや、理由なんてわかってる。
自分が許せていないのだ。
『鳶』のことを…いや、『鳶』が死んだ理由を。
コンコン…。
不意にした音に立ち上がる。
「……はい。」
「俺だ。蛍だ。」
蛍…?
なぜこんな所に…?
不思議に思いながら戸を開ける。
「よかった。やっと出てきた。」
その呆れたような、安心したような顔に首を傾げる。
「…お前、3日間飲まず食わずで閉じこもってたんだよ。」
「3日…?」
「おぅ。」
どうりで体が重いわけだ。
完全に鈍っている。
「…ごめんなさい…寝てたみたい…。」
「3日間?」
「うん。」
「飲まず食わずで?」
「……。」
こっくりと頷くと、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
驚いて顔を上げると、蛍が腹を抱えている。
「凄まじく頑固な女だな。」
「…そんなんじゃない。」
蛍は肩をすくめた。
そして翠を見つめる。
頭には、先ほどまで一緒にいた女たちの話が浮かんでいた。
「あぁ、あの子?…翠はね、母親と恋人を村の『掟』で亡くしてるのよ。」
「そうそう、それで心の支えになってやったのが鳶。あの子の恋人だったの。」
「その鳶も…ねぇ…。」
女たちが大袈裟にため息をつく。
「…去年の春、あんたたちみたいな輩の鰐蛇を死なせちまったから、命を持って償ったんだ。」
翠は何も言わない。
蛍はポツリと言った。
「…俺さ、孤児なんだよ。」
翠が顔を上げた。
「…だから、よくわかんねぇ。お前のこと。けどさ。」
蛍は真っ直ぐに翠の瞳を見つめた。
「…止まってちゃダメだろ…?」
焦げ茶色の髪を揺らし、青年は言った。
『なぁ、翠?春ってなんかいいよな。俺さ、春夏秋冬の中で一番春が好きだよ。』
──ごめんなさい。
私は春が嫌い。
あなたを亡くした季節だから…。
「立ち止まってちゃ…ダメだろ…?」
(知ったような口きかないで。)
翠は蛍を見据えた。
「…私だって…好きでいつまでも立ち止まってるわけじゃない。」
甘い香りが鼻をくすぐる。
あぁ、またこの匂いだ、と翠は思う。
一方、蛍の方は思い返していた。
『…最初はあの子も前向きだったさ。次の男を見つけて幸せになろうとした。あの容姿だからね。『鳶』が死んで、男は好機とばかりに寄ってきたよ。…けど、なんでだろうね。あの子は男どもの求婚を全部凪払って、今もああしているんだ。』
蛍は翠を見つめた。
「…なぁ、お前はどうしてそんなに冷めているんだ?」
「…さぁね。わからない。」
コトリ、と翠がカップを置いた。
そしてゆっくりと口を開いた。
「…笑えるわけがない。」
「え?」
蛍は眉をひそめた。
「…大好きだった…。愛していたの…。」
翠の目から涙が落ちる。
「…あいつがクローフィに喰われたとき、私は一緒に喰われようとした。」
透明な涙が紅茶に落ちる。
「…けど…あいつは許してくれなかった…共に死ぬことを。」
蛍はうつむいた。
この少女は死にたくて泣いているのだろうか?
それとも…。
「私に…生きろと言った…許せないの…!あいつがいなくなっても…っ…平気な顔して回り続けるこの世界が…!!」
翠は嗚咽を漏らす。
「…あいつのいない世界なんて…私にとってはただのガラクタでしかなかったのに…!!!」
翠がわあっと泣き出した。
蛍は黙ってそれを見つめる。
当たり前だ。
愛する人に死んで欲しいわけがない。
『鳶』は最善の未来を選んだだけ。
「鳶が死んだとたん、男たちが言い寄ってきた……。」
蛍は翠を見つめた。
翠は目を見開いたまま涙を流す。
その感情はもう、憎しみに近い。
「…あいつらは……まるで鳶が死んだことを喜ぶみたいに寄ってきた…!許せなかった…!だから…!!!」
蛍はポツリと呟いた。
「求婚をすべて凪払ったと?」
翠はしばらく黙っていたが、こっくりと頷いた。
「…けど、私の幼なじみで鳶の親友だった琉斗は違った。…一緒に泣いてくれたの。慰めてくれた。だから、村の男たちの中で、アイツだけは特別。」
何が?と聞きそうになった。
婚約してもいいということか?
翠はゆっくりと瞳を上げた。
二つのアメジストが揺れる。
「…それと、蛍も特別。…私の瞳の色も変な髪のことも気にしないでこうして話を聞いてくれる。」
コトリ、と何かが動いた。
「………?」
「…どうかした?」
「……あ…いや、何でもねぇよ。」
「そ。」
翠が立ち上がる。
「…どこか行くのか?」
「仕事。ここ、好きに使ってていいからね。リト、行くよ。」
「きゅっ!」
どうやらベッドの下にいたらしいリトが埃まみれで飛び出てくる。
「ぎゃ!リト!ストップ!!頭に乗らないで!体洗って!!きゃぁぁぁあ!!」
「ぷっ…!」
「笑わないで!!」
と、あれ?と蛍は首を傾げた。
…表情が格段に豊かになっている。
なぜだろう。
すべて話して気が楽になったのかもしれない。
冷めた視線も、真一文字たった唇も、いくらかマシになって…いや、だいぶ解消された。
もぉ!と憤慨しながら歩いていく翠を見つめて息をつく。
「……変な奴。」
「それはこっちのセリフ!!!」
げ、聞こえてたのか、と蛍は苦い顔をする。
と、翠が…笑った。
「…けどありがと。」
コトリ…。
(…まただ。)
何かが動き出す気配。
止まっていた歯車と、誰との噛み合わなかった歯車が、再び回りだした。