水簾~刻の雨音~
戸惑い
 翠はお茶を入れながら、横目でソファーにもたれて眠っているそいつを見た。

(…昨日は『気が向いたらな』とかかっこつけてたくせに…。)

 そう。

 言いながらも朝ご飯からずっとここにいるあいつはなんなんだろう。

 もう来てくれないかも、とかなり不安になっていた反動からか、期待通り来てくれてもなんだかイラッとした。

 当の本人は、すぐそこで昼寝の真っ最中だ。

 翠は扉を開けて、岩戸に向かった。

「きゅっ!!」

 後ろからリトがついてくるのを確認し、翠は少しほほえんだ。

「リト、今日はなんだか気持ちがいいね。」

「きゅっ!!」

 はれた青空。

 気持ちのいい風。

 緑の草原。

 いつもと同じ景色なのに、昨日とは違う。

 世界が明るく美しい。

 色が鮮やかで、すべてが美しく見える。

 翠はゆっくりと口を開いた。

「天から遠く離れたところ

 海と大地を旅している

 それがどんなに辛くても

 あなたといられるなら

 私が行きたいところなんてない 」

 この唄を唄うのはいつぶりだろう。

 鳶がいなくなってから、口を開くことさえ嫌になった。
 
 唄なんて、もってのほかだった。

 …じゃあ、いつから唄うようになったんだろう?

 ふと疑問が浮かんで翠は立ち止まった。

「…きゅ?」

 リトがつぶらな瞳で見つめてくる。

 が、かまってなどいられなかった。

 どくんっ、と心臓が動いた。

(…この間、鰐蛇に唄ったのが最初…。)

 けどあれは仕方ない。

 琉斗が喰われそうだったのだから。
 
 だとすれば、本当のはじまりは…。

(…蛍に話を聞いてもらった後…。)

 翠の顔がわずかに青ざめた。

(…まさか…鳶のことがふっきれて…。)

 それに気づかずに生きていくには、翠は聡明すぎた。

 自分が今までと違う道を歩き出したことに気づいてしまったのだ。

「…まさか…ね。」

 翠は瞳を揺らした。

「────っ!!」

(…まさか、じゃない。)

 あぁ、と言葉を漏らす。

「…だめ…そんなの…。」

 がくっとひざを突く。

 忘れてはいけない。

 鳶は私の愛しい人。

 琉斗は大切な人。

 …じゃあ、蛍は?

 冷たい汗が頬を流れた。

「…私…蛍に…。」

 ありえない、というように首を振る。

「蛍は…ただの相談相手。」

 言い聞かせるように言うと、翠は立ち上がった。

 雲が出始める。

 一雨来そうな気がして、翠は早足で岩戸へと向かっていった。



「…うわちゃぁ…降ってきた…。」

 隣で声を上げるのは、少し年上の同僚、亮太だ。

 琉斗とは従兄弟であり、翠も昔からよく懐いていた。

 鳶の件があってからも、ほとんど変わらずいてくれた人だ。

「亮太さん、傘持ってますか?」

 翠も困り果てて空を見上げながら、亮太に尋ねる。

 亮太は首を振り、残念ながら、と答えた。

「…どうしよう…。」

 困っていると、後ろから琉斗がやってくる。

「翠、傘ないんなら俺んちで雨宿りしていくか?ここから近いし。」

 いつもだったら即答なのだが、この時ばかりは違った。

 家には蛍がいるのだ。

 翠にしてはかなり悩んだ後、結局外の豪雨を見て「そうする。」と答えた。

 

「まぁぁあ!!翠ちゃんっ!久しぶり!元気してた?」

 琉斗の家につくなり、琉斗のお母さんが駆けてきた。

「おばさん、お久しぶりです。」

「やぁね、ずぶ濡れじゃないの!ほら、お風呂入ってきなさいな。沸かしてあるから。」

 ぐいぐいと背中を押されるが、慌てて首を振る。

「だ、だめですよ!私は最後でいいです!突然来ちゃっただけでも迷惑なのに…!」

 おばさんは、あははっと笑ってまた背中を押し出した。

「あんっなむさ苦しい奴らの入った湯なんかに入れらんないよ!」

 けど…と食い下がると、おばさんはニヤリと笑った。

「それとも琉斗と一緒に入るかい?」

「いいです!!」

 思わず即答すると、おばさんが豪快に笑った。

「あっはっはっは!!そんなに否定しなくても、昔は一緒に入ってたんだよ!?」

「む…むかしはむかし…。」

 顔を赤くすると、おばさんがふっと安心して笑った。

「…ちゃんと笑えるようになったね。」

「……。」

 思わずおばさんを見上げると、その目尻には涙が浮かんでいた。

 ズキッと心が痛んだ。

 こんなにも心配をかけていたなんて。

「あらやだ…ごめんなさい…。」

 おばさんが手の甲で涙を拭った。

「おばさん…ごめんなさい…。こんなに心配かけてたなんて…。」

 本当にごめんなさい。

 そう言った途端、翠の目にも涙が浮かんだ。

 自分がどんなに自分勝手であったかが身にしみた。

 鳶はおばさんにとっても可愛かったろうに。

 それなのに自分は男たちの身勝手さに嫌になって人との関わりに興味をなくした。

 けど、本当に身勝手だったのは自分だったのだ。

 こんなに心配かけて。

 おばさんはふっと笑うと、いたずらっぽく言った。

「よぉし!おばさんが背中流してあげよう!」

 翠は泣き笑いの顔になりながらも、脱衣所へと歩き出した。


 


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