「恋って、認めて。先生」
曲がラヴェルの「水の戯れ」に移る。
琉生の指先は巧みに鍵盤の上を移動して、そのメロディーをひとつひとつ無駄なく綺麗に弾きこなしていく。
この曲は、琉生が高校の音楽科にいた頃、OBと合同の演奏会で弾いたものだ。私もその演奏会を見に行き、一気に惚れた、お気に入りの曲のひとつだ。
緩急のついた音の変化に吸い込まれ、音楽の奥深さに引き込まれる。
「こんなに上手に弾けるのに、どうしてピアニストにならなかったの……?」
無意識のうちに口にしていたその一言は、演奏中の琉生の耳に届いていたらしい。
「水の戯れ」を弾き終えた後、琉生は切なげに笑ってこう答えた。
「なれるものならなりたかったよ。世界一のピアニストに」
「夢を諦めたこと、後悔してない?今でもまだ間に合うんじゃ……!」
琉生は静かに首を横に振り、いつもの陽気な声音で言った。
「おれっちなんかより上手い弾き手は世の中にたーっくさんいる。日本にも、世界にも」
それでも私は、琉生の一番のファンだよ。
「ピアノが好きで得意でも、それで生活していけない人もいる。そういう先輩をたくさん見てきた。それに比べたら俺は幸せな方だよ。毎日好きなことをして食べていけるんだから」
琉生が自分のことを「俺」と言うのは、真面目な話をする時だけーー。いつしか彼にはそういう口癖が身についていた。
この時私は、教師になりたいと言った比奈守君の顔を思い出さずにはいられなかった。
「夢を諦めなきゃならないと思った時、琉生はどんな気持ちだったの?」
「そうだなぁ……。色々思うことはあったけど、総合すると『悲しかった』かな」
「……」
「自分の努力を全否定されたようで、夢を持つことはバカげてると叱られたようで、何より、自分で自分の可能性に見切りをつけなきゃならないことが自分自身に対して申し訳なくてさ……」
心の中とは真逆の明るい曲「ねこふんじゃった」を弾きながら、琉生は言葉を継いだ。
「今の生活も好きだけど、もし夢が叶ってたら俺はどうなってたんだろう?どんな暮らしをしていたんだろう?そう考えることはしょっちゅうなんだ。
今でも時々想像する。こうしてピアノを弾いていると、俺はピアニストなんだ、世界の舞台で生の演奏を披露しているんだ、って」
「……うん」
「ま、夢見るだけなら自由だしなっ」
しんみりした空気を振り切るように、琉生は次の曲を弾いた。リストの「ハンガリー狂詩曲第2番」。琉生の心情を表したような、明るいようで切ない曲調。
ーー決めた。私は比奈守君とさよならする。