記憶堂書店



鏑木がそっと目を開けると、先ほどと同じ場所に立っていた。

数分前のことだから当たり前だが、風景も景色も何も変わらない。一瞬、本当に視られるのか疑問が湧いたが、道の向こうから歩いてくる青年を見て疑問は消えた。
若いころの自分、鏑木青年が本を片手に道の向こうから歩いてくる。
そして、目の前を通りすぎ、ある桜の木の下で足を止めた。
そこには蹲る女性が一人。
そこまではさっきと同じ光景が繰り広げられている。
鏑木青年はその女性に慌てて声をかける。

「どうしました。大丈夫ですか?」
「大丈夫です」

先ほどと同じ会話。

「体調が悪そうだ。今医者を呼んでくるから」

そう告げ立ち上がると、女性はグイッと服を引っ張りそれを止める。

「大丈夫ですから。少し眩暈を起こしただけ。休めばよくなります」

そう、告げた。
正直、あの時もそう言われ、躊躇した。
大丈夫と言うなら平気なのかもしれないと。
しかし、純粋に心配になり、元の世界では自分はここで強引に家へ連れ帰って休ませた。
実際、医師に診てもらうと女性は風邪をこじらせており、熱があるとのことだった。彼女の家の人に知らせようと思い、身元を聞くが、何一つ決して話そうとしない。
ただ、すぐに出ていきますからと話すだけだ。
しかし、こんな状態で外に出すわけにはいかない、身元が話せないのならせめて熱が下がるまでは鏑木家で療養するよう勧めた。
女性も動きたいのはやまやまだが身体を動かせないようで、仕方なく頷く。
彼女は母やばあやが看病し、体調が戻るまで家で休養させた。
すっかり体調が戻ったころには、すでに一週間が経過していた。女性は一度家を出るが、数時間後には再び戻って来て、行くところがないからここで働かせてほしいと懇願してきたのだ。
初めは断った。看病したのは善意であるが、正直身元の分からない女性を働かせ、のちに面倒なことになったら大変だと。

しかし、女性はもともと身寄りがなくある人の元で働いていたが辞めてしまい、行くところがない。だからここで働かせてほしいと頭を下げたのだ。
鏑木家はそれなりに地元では資産家で、父母ばあやの他に一人お手伝いをしていた女性がいたが、結婚のため辞めたばかりだった。
そのため、迷いはあったが女性をお手伝いに迎え働かせたのだ。
そして、いつしか鏑木は女性に恋愛感情を持ち、求婚した。
女性も、頬を染め、笑顔で求婚を受けてくれた。



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