記憶堂書店
「坊ちゃま。構いません」
そうしがみついて話すと、坊ちゃまと呼ばれた男性は力強く頷いた。
「わかった。行こう。新しい場所で医者に連れて行ってやるからな」
「はい」
そう言うと女性は幸せそうな笑顔で微笑む。男性は女性を抱きかかえ、足早にその場を去っていった。
その後姿を鏑木は静かに見守っている。
ふたりが道の先から消えると、ホッと息を吐いた。
安堵のため息だろう。そんな鏑木に龍臣は声をかける。
「よろしかったのですか?」
「ええ。本来ならあれが正しい姿なのです。あれで良かったはずなんです。なのにそれを、私が壊してしまった」
そう切なげに顔をゆがめる。自分のしたことを後悔しているようだった。
「店主さん。私の懺悔を聞いてくださいますか」
鏑木は女性が蹲っていた桜の木の幹に腰かけた。龍臣が黙っていると了承ととらえたようで、ゆっくりと話し出した。
「元の世界で、妻は自分のことをあまり話したがりませんでした。聞かせてほしいと伝えると、言葉を選ぶように時々ポツリポツリと話してくれるだけで……。その話から、どうやら妻は15歳の時から、あるどこか大きな屋敷で働いていたということを知りました。妻は理由があって家を出たと言っていました……。私が全てを知ったのは、二年ほど前です。妻が病気になり、入院をしました。歳もあるのでしょうが、そのころから少し記憶が混乱するようになりましてね。私をある男性と間違えるようになったんです。そして、どうやらあの時、妻が雇い主の家の息子と恋仲になり、駆け落ちをしようとしていたことを知りました。病室で妻は私を面会に来たその息子だと思い込んだようでね。嬉しそうに呼びかけるんです。「坊ちゃま」と……。妻は具合が悪くなり、待ち合わせ場所であるあの桜の木の下に居られなかったことを謝罪していました」
鏑木はハァと深くため息をつく。