記憶堂書店


「妻は雇い主の息子を忘れることはなかったんですよ。『ごめんなさい』『体調が戻ってから会いに行ったけれど、あなたは婚約者だった女性と結婚させられていた』と泣きながら話していました。だから妻には行くところがなかったのですね。屋敷を出た女中に戻る場所なんてあるはずもなかった」

だから女性は雇ってほしいと鏑木青年の元へ戻ってきたのだ。

「……私は情けないことに、この年になって初めて妻の全てを知りましたよ。それから、私は後悔ばかりしていました。あの時、私が妻を連れて行かなければ妻は心から愛する人と一緒になれたのにと。妻の本当の幸せを壊してしまったのは、私だった。親切でしたことは、妻にとっては余計なお世話だったんです。あの時、無理に連れて帰らなければ、こんな風に悲しい表情をさせることもなかったとずっと後悔していました」

そう話す鏑木の声は後悔がにじみ出ていかのように、苦しそうだ。
龍臣は唇を噛んだ。鏑木が悪いわけではないではないか。

「鏑木さんは、親切でしたことです」
「断っていた妻を強引に連れて行ったのは私だ。彼女の意思を無視したんですよ。親切心でも、あれは正しい選択ではなかった。結果、ずっと彼女を苦しめてしまった」
「奥さんを……、本当に愛していたんですね」

ここまで後悔するなど、今でも愛していないとできないのではないだろうか。
すると、鏑木は首を横に振った。

「ただの自己満足の愛です。妻は私を心の底からは愛していなかったのではないでしょうか。でも、だからこそ、ここに来て良かった。私はね、妻が本当に幸せな姿を見たかったんですよ」

鏑木は涙を浮かべて微笑んだ。
迎えに来た駆け落ち相手に会った時の嬉しそうな笑顔が、彼女の幸せを表すものだったのだ。

「失礼ですが、今奥さんは?」
「妻は入院中です。もって数日。人工呼吸器につながれ、もう声も出ません」

衝撃の事実に龍臣は言葉を失う。
だから、鏑木は強く想ったのか。もう声も出せず、目も開けられず、笑うことも起き上がることも出来ず、ただ死を待つしかない妻を見て、最期に妻の本当の幸せそうな笑顔が見たいと、そう思ったのではないだろうか。
それほどまでに、妻を心から愛していたのだろう。

「ありがとう、店主さん。もう満足しました」
「本当ですか? 本当にこれで良かったのですか?」
「ええ。妻の幸せそうな笑顔が見られて満足です」

鏑木は晴れ晴れとした表情で龍臣を振り返る。
曇りのない、いい笑顔だった。その顔が、鏑木の満足を表している。
鏑木にとって、この記憶は辛いことではないのだ。
妻の笑顔が鏑木の幸せなのだろう。

龍臣が苦しげな表情をすると「大丈夫」と笑って肩を叩いてくれた。

「あなたは優しいですね」

鏑木は苦笑した。
「さぁ!」と鏑木は促した。

「店主さん、帰りましょう。妻が待っているんですよ」
「はい、そうですね」

妻との残された時間は少ない。だからこそ、ここでぐずぐずしていられなかった。
龍臣が頷くと、鏑木は目の前が白くなり意識を飛ばした――――……







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