記憶堂書店


綾子は何度も説明と説得を試みるが、花江は解決を求めているのではなくただ単に話を聞いて欲しかっただけだと繰り返した。
混乱させてごめんなさいと花江は謝るが、綾子は益々自分の力のなさにうなだれる。
花江に促されてカフェから出るが、その表情は対照的だった。
花江は聞いてもらうことで、決意を新たにしたのだろう。初めの頃の悲壮感はほとんど消えていた。反対に、綾子は今にも泣きそうになっている。

「連絡先、変えないから。何か助けが必要だったら連絡してね」

綾子にはそう言うのが精いっぱいだった。花江は嬉しそうに頷くと、修也の手を持ってバイバイと手を振り、商店街へと消えていった。
綾子はしばらく見つめていたが、うな垂れるようにその場を後にした。

そこまで見届けると、突然、龍臣の隣にいた加賀先生が膝から崩れ落ちるように地面にしゃがみ込んだ。

「嘘……でしょう。花江がそんなことになっていたなんて……」

加賀先生はショックを隠し切れない様子だ。血色を失い、呆然とした様子で地面を見つめている。
それは龍臣も同じだった。
修也のことは、彼が祖父母に預けられてからしか知らない。家も近所で彼の祖父母が記憶堂に来ることもあって親しくなったが、修也の両親については聞いたことがなかったのだ。
子ども心に他人の家について干渉してはいけないと感じていた。
しかし、ずっと気になっていた事実。
修也の母親の蒸発は、父親の借金と入院が原因だった。では、父親は今どうしているのだろう?
母親は現在どうしているのだろうか。
このことを修也の祖父母は知っているのだろうか。祖父母は何かしらの援助は出来なかったのだろうか。
龍臣は多くの疑問を持ちつつも、案内役として大きく一息をついて心を落ち着かせた。

「もし話を聞いていたとしても、修也の母親はいなくなりました。それは変わりありません」

龍臣はしゃがみこむ加賀先生見下ろして穏やかに告げる。
そう。話を聞いていたとしても結果は変わらないようだ。いや、さらに決意を固めている様子だった。
しかし、それには加賀先生は強めに首を横に振った。

「そうかもしれない。結果は変わらなかった。でも、この事実を知っていたのと知らなかったのでは全然違うわ。私はもっと修也君が小さな頃から何かサポート出来ていたかもしれない。花江を探せていたかもしれない」
「それは結果論です。これは、選ばなかったあなたの別の人生です。見るしかできません。現実は何も変わらないのです」

冷たい言い方になってしまうが、それは紛れもない事実なのだ。
いくら後悔したところでなにも変わらない。もう過去は変えられないのだ。
なにより現実に戻ったとして、加賀先生が見たことを覚えていなくては何も意味がない。

「そう、そうね……。確かに、店主さんが言うことは正しいわ。これを見たとしても、何も現実は変わっていないのだからね。花江は修也君を置いて行方不明。それは何も変わらない……」

唇を噛み、悔しげな表情を見せてから、一度両手で顔を覆った。そして、何度も大きく深呼吸をしてから、どこか自分を納得させるように小さく数回頷いた。

「でもね……、そうだとしても花江のことを知れて良かったと思うのはおかしなことかしら」
「……いいえ」
「花江は育児に疲れたり、生活に嫌になって消えたんじゃなかった。心から修也君を愛していたから行方をくらませたのだと思うの。それが知れただけでも、なんだか良かった……」

そうかもしれない。
何度も考えた。もしかしたら母親は育児ノイローゼになり、修也を捨てたのではないか。父親から何かしら暴力を受け、逃げたのではないか。修也は望まれない子どもだったのではないか。だから邪魔になって置いて行かれたのでは?
何度も悪いことを想像しては打ち消していた。
しかし、修也は確実に母親に愛されていた。それは龍臣から見ても、良く伝わった事実なのだ。
すると、加賀先生は大きく深呼吸をして俯いたまま頬を拭った。
上げた顔に涙はない。

「戻ったらこのことを私は忘れてしまうのかしら?」
「おそらくは」

たまに見たことを覚えたまま現実に戻る人もいるが、それはごくわずかだ。ほとんどの人は忘れてしまう。




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