マネー・ドール

「待って」
……何か、言ったか?
「待って、慶太」
なんだよ……金の話か? 心配するな。お前の望む通りに、してやるから。今の俺には……それだけなんだよ、真純。それがせめてもの……罪滅ぼしだ。
「今日ね……将吾に会ったの……」
将吾?……ああ、そうだ……やっと、杉本からも、離れられる……
「将吾ね、幸せそうだった……」
妻は、小さな声で……
「幸せかってね、幸せかって……聞かれて……私……幸せって……いつもね、幸せって言うの。誰に聞かれても、ええ、幸せですって……」
その声は、舌ったらずで……
「だって、だってこんなにお金持ちになったもん。好きな服も、好きなバッグも、何でも買える。母親がね、お金を無心するのよ……」
ちょっと掠れていて……
「食べるものもなくて、いつもおなかすいてて、でもね、今は、今はね……」
一生懸命で……
「……ねえ、見て、慶太。私、こんなにキレイになったのよ……」
ああ、お前はキレイになったよ。俺の望む、イケてる女に……
なったけど……俺の欲しかった、門田真純じゃ……なくなった……きっとそれは……俺のせいだ……真純……許してくれ……
ドアにかけた手の甲に、涙が落ちる。……寒い……生暖かい涙が手の甲で、氷のように冷えて……
もう、疲れたんだ……真純……俺、もう、疲れたんだよ……このまま、出て行かせてくれ……
でも、妻の声は、少しずつ、大きくなって、静まりかえったリビングに……響いた。

「ねえ、私を見てよ。なんで他の女ばっかり見るの? 私を見て。私を抱いてよ。私のこと愛してよ!」

……なんだよ……見てるよ……ずっと、見てたじゃないか……俺は、ずっと、ずっと……お前を……本当はお前だけが……お前だけに……

「じゃあ……じゃあ、俺を愛してくれよ。金じゃなくて、俺を、この俺を愛してくれよ! この俺に抱かれてくれよ! なんだよ……俺はお前の愛が欲しくて、金稼いできてんだよ! お前はいくら出せば買えるのか、ずっとわからなかったんだよ!」

俺は、初めて、心の中の言葉を、音にした。初めて、真純に……初めて……俺の心を……見せた……
かっこわりい……なんだ、俺……イケてない……何言ってんだ……ああ、もう、寝たい。ほんとに、疲れた。真純、もう、いいだろ? もう……俺、眠いんだよ……明日、大事な打ち合わせがあるんだよ……

「……慶太、こっち、向いて……」

妻の声が、真後ろで聞こえた。近くで、聞こえた。きっと、俺の後ろに立っている。
なんだよ、情けねえ俺の顔、見に来たのか? このまま、こんな俺の顔、見ないでくれよ。もう、このまま……イケメンの夫のままで、終わらせてくれよ……
「慶太、顔……見たいの……」
……ああ、もう、見せてやるよ……こんなダサい、イケてない、薄っぺらい男の顔、見せてやるよ……
俺は、振り返った。俯いたまま、振り返った。涙で、何も見えない。妻の……真純の顔も……見れない……床にポタポタと、涙が落ちる。
「顔……見せて……」
「見なくて、いいよ……」
「見たいの」
かっこ悪いけど、俺は涙をスエットの袖で拭って、顔を上げて、真純を見た。真純は俺の、情けない泣き顔をじっと見て、言った。

「ごめんなさい」

俺はその言葉を、初めて聞いた。そして、真純の泣き顔を、初めて見た。
真純が、泣いている。俺の前で泣いている。あの真純が、俺の前で、本気で、泣いている。

 ずっとな、こう言えばよかったんだよ。俺は、こう言いたかった。お前に、この一言を、こんなに簡単なことを、言えずに二十年を過ごしてしまった。
時々、思うんだよ。もし、お前が杉本の部屋を出なかったら、花火に来なかったら、塾に入って来なかったら……東京に来なかったら……杉本の横で笑っているのは、子供たちに囲まれて笑っているのは、門田真純によく似た女じゃなくて、お前だったんじゃないかって。お前は、『杉本真純』になって、幸せな二十年を生きてたんじゃないかって。俺は、ずっと、お前を変えてしまったことに、責任を感じてた。でも、もう、二十年は戻らない。二十年前には、戻らない。戻れないから、俺は言うよ。思い切って。これが最後になっても、もう構わない。
真純、俺達は……

「やり直そう、最初から」

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