きみと駆けるアイディールワールド―緑風の章、セーブポイントから―
 ニコルさんが急にアタシを呼んだ。
「ルラちゃん」
「ひゃいっ?」
 いかん、声が裏返った上に噛んだ。でも、ニコルさんはアタシの変な声を気にもせず。
「今ここにいるラフは、抜け殻状態なんだ。ユーザの意識は確かにピアズにログインしているのに、ラフの中にいない。この膨大なデータ群のどこにいるのかわからない。現実世界では意識が戻らない」
 そもそも、とシャリンさんが言葉を挟む。
「意識があったころのラフが、アバターがピアズの世界に留まるように操作を加えたの。通常、ユーザがログアウトすれば、アバターは消えるように設計されてる。ラフはそれをいじった。そこからデータのほころびやバグが始まったのかもしれない」
 ピアズの設計、いじっちゃったんですか。それって違法では? とりあえず、見て見ぬふりをするとして。
「ラフさんの意識の居場所、目星はついてるんですよね? このサロール・タルに入った理由って、ここにいるかもしれないってことでしょ?」
 ニコルさんの、うなずきのアクション。銀髪サラッサラ。
「サロール・タルのデータに乱れがあると、シャリンが突き止めたんだ。プログラムに穴が空いている。そこからラフの意識がこの草原に入り込んだらしいとわかったけど、追跡はできなかった」
 シャリンさんってエンジニア? 頭よさそうな話し方するもんね。で、シャリンさんはやっぱ頭よすぎることを言い出した。
「人間の脳はブラックボックスよ。科学が発達した現在、2050年代の終わりになっても、脳内を飛び交う電気信号のメカニズムについては仮説の域を出ず、臨床における実証はなされていない。わずかに、運動領域に働き掛ける電気信号の一部の取り出しに成功した程度」
 えっと。
「のーみそ?」
 今の話の流れで脳みそが出てくる意味がわかりませーん。
 シャリンさんの盛大なため息がスピーカから聞こえた。噛んで含めるみたいに、口調がゆっくりになる。
「脳はデジタルな仕組みでできているの。体を動かす指令も、外界から得た情報の処理も、すべてデジタルな電気信号によっておこなわれる。自立的に学習するAIも、脳の仕組みをそのままモデルにして造られた。それくらい、脳はデジタルなものなの。ここまではいい?」
「はい。そういえば、生物の教科書で、運動ニューロンが電気信号をピリピリ出してるイラストを見ました」
「そうね。生物の体は、アナログではなくデジタルな要素に占められている。脳という機構はその最たるもので、意識あるいは人格と呼ばれるモノもデジタルデータとして書かれている。だから、ラフの意識はこのデジタルな世界に丸ごと入り込んでしまえたの」
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