きみと駆けるアイディールワールド―緑風の章、セーブポイントから―
●元気をくれる人。
放課後、あたしはナースⅢ実習の教室に戻った。
「失礼します」
「どうぞー」
風坂先生がメガネをかけ直して、あたしに微笑みかけた。メガネを拭いていた布を、シャツの胸ポケットに押し込む。
あたしは教室を見回して、首をかしげた。
「先生、あの、片付けるものは?」
「もう片付けたよ。重さ50キロの人形を女の子に運ばせるわけにはいかないって。最終コマは授業が入ってなかったし」
最後が空き時間だったってことは、ほんとは放課後を待たずに帰れたんだ。
「なんか、スミマセン」
風坂先生は適当な椅子に腰を下ろした。あたしは風坂先生に手招きされて、隣の席に着いた。風坂先生は、ふふっと笑った。
「教室のこっち側って、ずいぶん久しぶりだ。授業をするときは、あっち側だもんな」
「え?」
「普段ぼくが立つあっち側は、大人の側で教師の側。本当は全然、大人なんかじゃないのにね」
大人ですよ、先生は。たくさん気遣いできる人だもん。あたしはバカで無神経で、頼りなくて情けない子どもで。
風坂先生は、沈黙を作らないリズムでしゃべってくれる。
「特進科の甲斐瞬一くんは、医学部志望だよね?」
「はい」
「狙ってるのは、響告大医学部の先端医療学科。それ以外は眼中にないって言ってる」
「知ってるんですね、瞬一のこと」
瞬一が目指す響告大学医学部の先端医療学科は、パパが「挑戦」を叶える研究機関だ。
パパの病気、ALSを治せる可能性があるのは、万能細胞を使った最新の先端医療だけ。響告大医学部は、万能細胞医療の臨床では世界でトップレベルだ。
「実はね、ぼくの妹がそこで研究してるんだ。響告大医学部の先端医療学科、万能細胞研究のラボで」
「それって、瞬一の志望してるとこ……!」
「うん。だから、ときどき瞬一くんと話をするんだよ。1度、妹の研究室に連れて行ったこともある」
風坂先生はあたしを見ている。露骨に観察するわけじゃなく、でも細心の注意であたしの様子をうかがってる。
介助士の目だな、って感じた。相手が何を望んでいるか、どうすれば苦痛がないか、読み取ろうとしている。
あんまり気を遣わせるわけにはいかないよね。あたしはバカだけど、ちゃんと自力で立てるんだから。
あたしは笑顔をつくった。
「瞬一から、志望校の理由、聞いてますか?」
「具体的には何も」
「そうですか。瞬一があたしの家に住んでるって話、聞きました?」
「それも初耳だよ。妹はいろいろ聞かせてもらったらしいけど。瞬一くんとぼくの妹、タイプが似てるから、話しやすかったみたいで」
「きょうだいとして育ったんです。あたしが姉で瞬一が弟。瞬一はああ見えて、抜けてるところもあるんです。世話、焼かなきゃいけなくて」
だから、信じられない。あたしが風坂先生の前で抱えるドキドキを、瞬一がいつも、あたしに対して感じてたなんて。
毎日、同じ家で顔を合わせて、家族同然で、それなのに、あたしは何も気付いてなかった。瞬一は気付かせてくれなかった。
風坂先生は、癖っぽい髪を掻き上げた。
「遠野初生さんは、瞬一くんのことが好きなんだね? その……告白、したの?」
「あたしが余計なこと言ったのを、瞬一が偶然、聞いたんです。初生と瞬一が付き合えばいいって」
「間が悪かったんだね」
「あたしのお節介な一言のせいで、初生が瞬一に告白することになりました。それで今日、返事を先送りにしてた瞬一が答えて」
「その場面を、ぼくが聞いてしまったわけか」
風坂先生は困ったように眉尻を下げた。
「巻き込んで、ごめんなさい」
「いや。まあ、悩むよね」
「どうすればいいか、わかんないんです。初生には嫌われたし、瞬一には今まで以上に避けられるだろうし。自分のバカさ加減が、ほんとにイヤです」
「失礼します」
「どうぞー」
風坂先生がメガネをかけ直して、あたしに微笑みかけた。メガネを拭いていた布を、シャツの胸ポケットに押し込む。
あたしは教室を見回して、首をかしげた。
「先生、あの、片付けるものは?」
「もう片付けたよ。重さ50キロの人形を女の子に運ばせるわけにはいかないって。最終コマは授業が入ってなかったし」
最後が空き時間だったってことは、ほんとは放課後を待たずに帰れたんだ。
「なんか、スミマセン」
風坂先生は適当な椅子に腰を下ろした。あたしは風坂先生に手招きされて、隣の席に着いた。風坂先生は、ふふっと笑った。
「教室のこっち側って、ずいぶん久しぶりだ。授業をするときは、あっち側だもんな」
「え?」
「普段ぼくが立つあっち側は、大人の側で教師の側。本当は全然、大人なんかじゃないのにね」
大人ですよ、先生は。たくさん気遣いできる人だもん。あたしはバカで無神経で、頼りなくて情けない子どもで。
風坂先生は、沈黙を作らないリズムでしゃべってくれる。
「特進科の甲斐瞬一くんは、医学部志望だよね?」
「はい」
「狙ってるのは、響告大医学部の先端医療学科。それ以外は眼中にないって言ってる」
「知ってるんですね、瞬一のこと」
瞬一が目指す響告大学医学部の先端医療学科は、パパが「挑戦」を叶える研究機関だ。
パパの病気、ALSを治せる可能性があるのは、万能細胞を使った最新の先端医療だけ。響告大医学部は、万能細胞医療の臨床では世界でトップレベルだ。
「実はね、ぼくの妹がそこで研究してるんだ。響告大医学部の先端医療学科、万能細胞研究のラボで」
「それって、瞬一の志望してるとこ……!」
「うん。だから、ときどき瞬一くんと話をするんだよ。1度、妹の研究室に連れて行ったこともある」
風坂先生はあたしを見ている。露骨に観察するわけじゃなく、でも細心の注意であたしの様子をうかがってる。
介助士の目だな、って感じた。相手が何を望んでいるか、どうすれば苦痛がないか、読み取ろうとしている。
あんまり気を遣わせるわけにはいかないよね。あたしはバカだけど、ちゃんと自力で立てるんだから。
あたしは笑顔をつくった。
「瞬一から、志望校の理由、聞いてますか?」
「具体的には何も」
「そうですか。瞬一があたしの家に住んでるって話、聞きました?」
「それも初耳だよ。妹はいろいろ聞かせてもらったらしいけど。瞬一くんとぼくの妹、タイプが似てるから、話しやすかったみたいで」
「きょうだいとして育ったんです。あたしが姉で瞬一が弟。瞬一はああ見えて、抜けてるところもあるんです。世話、焼かなきゃいけなくて」
だから、信じられない。あたしが風坂先生の前で抱えるドキドキを、瞬一がいつも、あたしに対して感じてたなんて。
毎日、同じ家で顔を合わせて、家族同然で、それなのに、あたしは何も気付いてなかった。瞬一は気付かせてくれなかった。
風坂先生は、癖っぽい髪を掻き上げた。
「遠野初生さんは、瞬一くんのことが好きなんだね? その……告白、したの?」
「あたしが余計なこと言ったのを、瞬一が偶然、聞いたんです。初生と瞬一が付き合えばいいって」
「間が悪かったんだね」
「あたしのお節介な一言のせいで、初生が瞬一に告白することになりました。それで今日、返事を先送りにしてた瞬一が答えて」
「その場面を、ぼくが聞いてしまったわけか」
風坂先生は困ったように眉尻を下げた。
「巻き込んで、ごめんなさい」
「いや。まあ、悩むよね」
「どうすればいいか、わかんないんです。初生には嫌われたし、瞬一には今まで以上に避けられるだろうし。自分のバカさ加減が、ほんとにイヤです」