きみと駆けるアイディールワールド―緑風の章、セーブポイントから―
 風坂先生はゆっくり歩き出した。あたしも慌てて足を動かし始める。状況が今いち呑み込めない。だって、これ、風坂先生と相合い傘だよ?
 普段なら跳びはねるんだけどな。今はダメだ。無理だ。弱ってる。
 胸にしまい込んでる笑顔の理由が、ぽろぽろ、こぼれていく。
「父は、検査入院なんです。検査っていうか、正確にはデータ提供のため。響告大附属病院は研究機関でもあるでしょう? 響告大の医学部と連携が強くて、世界的にも有名な博士がいたりして」
「うん。ぼくの利用者さんも入院してるから、よく知ってる」
「父の病気、ALSなんです」
 風坂先生が息を呑んだ。
「ALS……筋萎縮性側索硬化症《きんいしゅくせいそくさくこうかしょう》か。脳の司令を筋肉に伝える運動ニューロンが冒される病気だね」
「風坂先生は、この病気、ご存じですよね」
 例えば、あたしが誰かに手をつねられるとする。痛いと感じるのは、知覚神経の仕事。痛いから手を引っ込めろと指示を出すのは、脳の仕事。脳の指示を腕の筋肉に伝えるのは、運動ニューロンの仕事。
 運動ニューロンは、神経細胞の一種だ。ALSは、運動ニューロンの働きを阻害する病気だ。
 ALSに冒された患者の運動ニューロンは、脳の指示を伝えない。つまり、患者の筋肉は使いものにならない。病んだ運動ニューロンは、その数自体をどんどん減らしていく。
 風坂先生は淡々と言った。
「病気が進むにつれて、筋肉が動かなくなっていく。手足が動かなくなる。表情筋さえ動かなくなる。食べ物を飲み込むことも呼吸をすることも難しくなっていく。完治させる方法は、まだ編み出されていない」
 あたしは足下を見ながら歩いた。風坂先生、きっと苦しそうな顔をしてる。声でわかる。あたしが風坂先生にそんな顔をさせるなんて、申し訳ない。
「父は、闘病じゃなくて『挑戦』って言うんです。世界で初めてALSを完治するんだって。だけど、どんなに元気なことを言ってても、歩くと転ぶんです。お箸、もう使えないんです」
 パパの症状はだんだん進んでる。
 字を書くのが難しくなった。リハビリで書く文字は、そろそろもう本当に読めない。服のボタンを留められなくなった。だから、ママが着替えを手伝ってる。
 こうやって1つずつできなくなってくんだ。
 膝当てと肘当てを付けて病院まで歩いたり、血圧を測りながらトランプで遊んだり、もうすぐできなくなってしまう。
 読み聞かせをしてくれてた優しい声さえ、いずれ出せなくなる。笑顔も呼吸も、食べ物を飲み込むこともできなくなる。自力で生きることができなくなる。
「あたしは少しでもパパの『挑戦』を手伝いたくて、だから看護師になりたい。パパが生きてるうちに。時間がどれだけあるかわからない。怖いです」
 風坂先生がうなずく気配があった。
「今日、瞬一くんとも話をしたんだ。同じ話を聞かせてくれた。育ての父の『挑戦』を成功させるために、先端医療の研究を志しているんだね」
 ALS患者の運動ニューロンは機能を失いながら減っていく。治療するためには、健康な運動ニューロンを補う必要がある。
 瞬一が目指してるのは「万能細胞」の研究。万能細胞は、体のどの器官にもなることができる。神経にも筋肉にもなれる。
 パパの細胞を採取して培養して、万能細胞を作る。その万能細胞から、健康な運動ニューロンを作る。健康な運動ニューロンをパパの体に移植する。もとが自分の細胞だから、移植の拒否反応は出ない。
 瞬一が目指しているのは、そういう治療をおこなうお医者さんだ。
「ALSじゃない別の難病では、万能細胞を使った新しい形の治療がもう始まってるんでしょう?」
「うん。実験って呼ばれるような段階だけどね」
「実験、ですか?」
「もちろん患者も合意の上だよ。自分にはまだやりたいことがある、死ぬくらいなら人体実験の素材にもなってやる、って。その実験に、ぼくの妹が関わってる」
 風坂先生は雨の中でささやく。それでも、その声はハッキリと通る。悲しみと切なさを秘めた、柔らかい声。
 理由はないけど、わかった。人体実験だなんて痛々しい言葉を使ったその患者さんは、きっと風坂先生にとって大切な人だ。
< 58 / 91 >

この作品をシェア

pagetop