ハロー、マイファーストレディ!
指示通り、他愛もない会話を話しかける。内容は聞かれている訳ではないが、念のため当たり障りのない話を繰り返した。

数分歩いて幹線道路に出てから、彼がタクシーを呼び止めようと車道にちらりと視線を移す。
突然、何か思いついたのか、貼り付けたような嘘くさい笑みを浮かべて、何かを呟いた。

「少し───────。」
「え?今、何て言ったの?」

車の走行音で彼の言葉がよく聞きとれなかった私が、聞き返そうと彼の顔に右耳を寄せた時。
繋がれていた手が急に離れて、彼の手が私の後頭部へと回された。
そのまま、彼の顔が近づいてきて、あっという間に唇が重なる。
優しく慈しむように、二、三度繰り返されるキスの間、私は何とか驚いたり抵抗したりする素振りを見せないように、必死に頭を働かせていた。
以前の私ならきっと顔を真っ赤にして狼狽えていたことだろう。

キスを終えてから、咄嗟の判断でうっとりとした瞳で微笑んだ私の耳元に、彼は「上出来だ」とほめ言葉を残してから、名残惜しそうに身を翻した。
手を上げて呼び止めたタクシーに乗り込んだ彼を、「じゃあね」と笑顔で見送る。

まるで当たり前のことのように振る舞っていたが、私の心臓は激しく音を立て続けていた。
そのドキドキと痺れるような感覚は、この状況の緊張感が作り出したものなのか。
それとも、演技とはいえ、まるで恋人同士のような甘いキスを交わしたせいなのか。
分からぬまま、唇に残る温もりと柔らかな感触が消える前に、私は部屋へと舞い戻った。
< 127 / 270 >

この作品をシェア

pagetop