残業しないで帰りなさい!
「離れたくないけど、さすがにもう行かないとね」
そう言って課長はスッと手を伸ばすと、私の頬にそっと触れた。指の触れた部分が一瞬熱くなって、離れた途端に熱は蒸発していった。何度味わっても寂しい感覚……。
「連絡するね」
課長は本当に寂しげに微笑むと、そのまま非常階段を降りていった。
降りて行く背中を見送って、見えなくなったら寂しくなって、足音にじっと耳を傾ける。
課長の足音はだんだん遠くなって、バタンと扉が閉まる音が聞こえた。
あ、本当にワイシャツにリップの色、付けたまま行っちゃった……。
しばし風に吹かれたまま茫然とする。
なんか、とんでもないことになってしまった。
次から次にいろんなことが起こりすぎて、頭は完全にパンクしてる。
私……課長とお付き合いすることになったの?
恋人ってこと?
社内恋愛中の恋人なんて言われてしまった。
あんな風に抱き締められたくせに、誰かに抱き締められたのなんて初めてだったくせに、まだ実感がわいてこない。
でも、課長は私を好きって言ってくれた。大事にするって言ってくれた。
私も課長に好きって言えた。そばにいたいって言えた。
本当の出来事、だったんだ……。
ぼーっと景色を眺めた。
前に課長が指をさした方角を見ても、やっぱり富士山は見えない。
いつか一緒に見られるのかな?
少し気持ちが落ち着いてきたから、一度深呼吸をして扉を開け、恐る恐るそーっと足音を立てないように自分のフロアに戻った。