残業しないで帰りなさい!

エレベーターが1階に着いた時、涙で視界が歪んでよく見えなかったけれど、とにかくエントランスを早足で通り過ぎようとエレベーターを出た。

バンッ!

横の扉が開く音が聞こえた。

ハッと見ると翔太くんが息を切らせて、膝に手をついていた。
驚いて、とにかく走って逃げた。

でも、エントランスを出てすぐに後ろから走って来た足音と共に、勢いよくタックルをされるみたいに捕まってしまった。

あっ、柱にぶつかっちゃうっ!

そう思ったけれど、翔太くんは遠心力で重心を変え、自分の体をくるっと柱の方に向けた。私はただドンッという柔らかな衝撃と共に背中から抱き留められただけだった。

後ろから抱き締められている。
翔太くんが私の首筋に顔を埋めて激しく息をしているのを感じる。腕の力強さを感じる。

「追いついてよかった……。もう年なんだから、走らせないで」

そんなこと言って、別れ話をするつもりなんでしょう?

やだ……。
そんなの、やだよっ!

ジタジタと暴れた。

「香奈ちゃん」

言い聞かせるような大好きな声が耳元に響いて、思わず動きを止める。

いつもなら心地いい声なのに、今は辛くて胸をえぐる。

……そうだ。
私が急に来たりしたから、一言も言わないで来たから、だからいけなかったんだよね?

「……ごめんなさい」

小さな声しか出なかった。

「どうして謝るの?」

「……何も言わないで、急に……来ちゃった、から」

ぽろぽろっと涙がこぼれてきた。泣いたって、困らせるだけなのに。

「いいんだよ。香奈ちゃんはいつ来たっていいんだよ?来てくれて嬉しい」

耳元で囁かれた優しい言葉にますます涙が落ちる。
どうしてそんなこと言うの?
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