【完結】セ・ン・セ・イ
朱莉が母親をなだめる言葉の隙間に挟む口パクを読み取る。


『ごめんなさい』

『今は、帰って』


そして、無言のその視線に隠された彼女の心の声を、俺は聞いた。


――『助けてください』――。


瀬戸朱莉が家や学校で彼女らしくいられない理由の一端を、その時、見た気がした。

そこは一介の教師が、否、それですらもないたかだかアルバイトの大学生家庭教師ごときが、安易に踏み込んでいい領域では決してなかった。


壊れかけた母を抱いて自らも今にも壊れてしまいそうな瀬戸朱莉に向けて、差し延べかけた手は途中で惑い、そしてふらりと俺の元に引き返してくる。


俺に、一体何が出来る。


生徒である朱莉の健全な生活を守るためにと思って吐き出した言葉は、彼女の母親の中の何かを壊した。

裏にどんな事情があるのかなど知らされていないし、必要以上の介入を望まれてもいなかったというのに、勝手にでしゃばって余計なことをしたが故に。


生徒だけでなくその家族にまで及んでこれ以上突っ込んで、歪んだその『何か』を修復するだけの力は俺にあるのか。

そんな言葉を、知識を、経験を、そもそも破壊のリスクを背負う権利を、俺は持っていると言えるのか。


【教職とは聖職である】――生徒の為に全てを捧げて然るべき。

……本当に?

それは、一体、どこまでを含むと?


――『助けてください』――


朱莉が隠し切れずに漏らしたそのSOSに背を向けて、俺は、瀬戸家から逃げ出した。
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