背徳と僕
そして今日、せっかくルールを覚えたのだから実際にチェスをしてみよう、と僕と背徳は朝から僕の部屋にこもっている。

「む。」

僕が駒を移動させると、背徳が唸った。

「初心者に本気を出さないでくれ、少年。」

「君に手加減なんかしたら負けてしまうだろう。」

「あはは。」

背徳が笑う。

「チェスは楽しいね。」

「もちろんだとも。」

背徳がまた笑う。

僕も笑う。




「あらぁ、背徳ちゃん、帰っちゃったの?」

キッチンから間の抜けた母の声が聞こえた。

「ついさっき、ね。…長い時間上がり込んですいませんでした…だって。」

「なんだ、せっかく夜ご飯でも一緒にって思ってたのに。」

作りすぎちゃったわ、と、母がエプロンで濡れた手を拭きながらキッチンから出てきた。

「いやだ、あんたもしかして朝からずっとあの子をチェスに付き合わせてたの?」

床に散らばるチェス駒を見て、母が少しヒステリック気味に言う。

僕が何も言わないでいると、母は呆れたように

「あんなきれいな女の子捕まえて、つまんないことさせるんじゃないの。」

余計なお世話だ。

「早く片して。テーブルが置けないわ。」

母が黒いストッキングの爪先でチェス駒を軽く蹴った。

大人、とくに母親というものの無神経さにはほとほと呆れる。


僕があえてだらだらと床を片し終えると、母がテーブルをどかんと置く。

狭い部屋が、更に狭くなる。

「うらやましいわ、」

「え?」

「背徳ちゃんよ。」

母が煮魚とおひたし、味噌汁、炊飯器を運んできて、言う。

「自分があの顔をしていたら、もうちょっとマシな青春だったのかしら、ってね。」

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