夢おとぎ 恋草子
序章
男もすなる日記というものを 女もしてみんとてするなり―――
昨年の煤払いの最中に ふと目についた『土佐日記』
何気なく手に取り 開いてみたのでございます。
冒頭の あまりにも有名なこの書き出しの一文を
初めて目にしたわけではございませんが
何故かこの時ばかりは妙に心に響いて
瞬くような閃きを覚えました。
何かこう、熱いものに突き動かされるように
はたきと雑巾を放り投げた私は
おそらく常軌を逸していたに違いありません。
大切なお勤めを途中で投げ出すなど
ありえないからでございます。
もしかすると・・・
何かに憑かれていたのかもしれません。
そういう事が珍しくない時世でございますゆえ。
そんなこんなで その場から駆け出して自分の部屋に戻り
勇んで文机に向かったのはよいのですが
さて何を書いたものか・・・
かの名作 源氏物語を紡がれた紫式部さまや
枕草子を綴られた清少納言さまのような
長けた文才や感性があるわけではない
平凡極まりない私でございます。
その上、屋敷勤めの一介の女房。
日々の生活も実に地味で淡々と同じことを繰り返すばかり。
華やいだ出来事もため息が出てしまうような色恋事とも
無縁でございますゆえ 取り立てて書き綴ることも
皆様にご披露したいと思う事もございません。
さて果て 何を書いたものか・・・
うむむ、と唸って 頬杖をつき思慮に耽っておりました。
ゆえに 背中に忍び寄る気配には全く気が付きませんでした。
「煤払いを途中で放りだして
何処へ駆け出して行ったかと思いきや・・・」
こんなところで隠れていたのかね?と
突然 柔らかく優しい声色が
こめかみのあたりから耳元を擽り抜け
それを追いかけるように 甘やかな芳香が
ふんわりと私を包み込んだのでございます。
飛び上らんばかりに驚いた私の胸は
襟の重ねを押し上げてしまいそうなほどに
高鳴りました。
「と、殿?!」
振り返ると すっかり見慣れているはずなのに
何度見ても ときめいてしまう微笑みがございました。
私がお仕えする殿であり
この二条のお屋敷の主である 葵さま。御年不詳。
近衛の少将というお役目に相応しき
秀でたお方でございます。
その上 見目もたいそう麗しく・・・
宮中の女官の皆様の視線を
一身に集めておられるとのお噂も。
しかも 琵琶や笙の腕前は
雅楽寮に居られた頃から抜きんでており
風雅と優雅が衣を纏いて歩いているようなたたずまいであるのに
弓や馬術にも優れているというのですから
集めるのは視線だけであるはずがございません。
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