君と春を
その口から出たのは私の名前だった。
そして…表情が苦しげに歪む。
「……ミツキ、あいつは先日死んだよ。葬式が終わったばかりだ。」
「え………?」
思いもよらない一言。一気に思考回路がフリーズする。
「ひと月前に末期のガンが見つかってね。治療を拒んで店を開け続けて……店で倒れたんだ。
病院へ運んだ時にはもう…」
「…………………」
「あそこは……、あの店はもうじきなくなる。息子たちは古い本なんか興味ないからな。」
「…………………」
「冬瀬?大丈夫か?どうした?」
ただ事じゃないと察知した専務は私の肩を抱くように支えて静かに問う。
「……亡くなったそうです。数日前に。」
その声は、震えていたと思う。
「…そうか。それで開かないのか。」
……あんなに優しくて穏やかなひとだったのに。こんなに突然、別れも言わずに会えなくなるなんて。
ー生きてる限りここにいるー
ーいつまでもあの本を探すよー
ほんの数か月前にかけられた言葉が蘇る。
震えたまま動けない私を、専務は守るように胸に抱き込んだ。
「………帰ろう。俺がいるよ。」
労わるようにかけられた言葉さえも宙に浮いて心に届かない。
促されるままにドアに向かおうとしたその時、
「…大事なものを忘れてるよミツキ。あいつが見つけたものを、受け取ってくれ。」
そう言ってマスターがカウンターに置いたのは……
探していた本。まさにそれだった。
「冬瀬、それ……!」
見覚えのあるその本を恐る恐る手に取り、表紙を撫でる。
繊細な表装。
懐かしい重みのある感触。
古い本の匂い。
間違いなく、……これだ。
「それを持って来たのは10日前だ。自分が死んだら店はきっとなくなるから、君が来るまで預かって欲しいと言っていたよ。
ここに現れるかはわからないけれど、希望を持って神の導きを待つと。
こんなに早く訪れるとは思わなかったけどね。」
微笑むマスターは肩の荷が下りたように穏やかだった。
「………………」
言葉がない。口を開けたら、涙が出そうだ。
その時、本の間から一枚のカードが落ちた。
拾い上げるとそこにはー
『 Non avere paura amore 』
「…何て?」
「……愛を……怖れるな…って。」
堪えきれない涙がポロポロと零れる。
私のことをこんなにも気にかけていてくれたなんて。
「あいつはいつも君のことを心配していたよ。
両親をなくしたことが原因かはわからないが、心がどこにもないみたいだと。
恐れる必要のないものを、恐れているようだと。
………ミツキ。
息子しかいなかったあいつにとって君は娘のように思えたのかもしれない。」
震える身体をきつく抱きしめてくれる胸に全てを預けながら、私は心の中で何かが変わりつつあるような感覚を感じていた。