強引社長の甘い罠
「うん、平気」

 思っていたよりも普通に返事ができて驚いた。そっと隣の祥吾に視線を滑らせる。一日仕事をしていたはずの彼のスーツはパリッとしていて皺一つない。光沢のあるグレーのネクタイは洗練された彼を一段と華やかに見せている。いかにもつい先ほど着替えましたといった感じだ。

 私はハッとした。さっき会社のビルのエントランスで佐伯さんにあったとき、彼女が言っていたではないか。

「祥吾、どうしてここにいるの? 今日は、その……食事の約束があるんでしょう?」

 内心、否定して欲しいと思ってしまった。そんな約束などしていないと。でもそんなのは私の願望でしかない。彼は驚いたようで僅かに眉を跳ね上げて「ああ」と頷いた。

「それなら明日に回してもらった。そんなものはいつでも行けるから構わない」

 私の胸が針で刺したような痛みを覚える。佐伯さんとはいつでも食事に行ける間柄なのだと言われた気がして、胸が苦しくなった。

「ここは駅の事務室だよ。君は駅の階段で意識を失ってここへ運ばれたんだ。君が持っていた社員証が目の前のビルに入っている会社だったからだろうね。会社に連絡が来た。俺がまだ会社にいてよかったよ」

 思い出して安心したのか、一つ息をついた祥吾がゆっくりと優しい口調で私に訊ねた。

「意識を失ったときのことは、覚えている?」

 私は小さく頷く。

「手すりに掴まりながら階段を下りている途中だったの。急に目の前が真っ暗になって……」

「君が手すりに掴まっていたのが幸いだったよ。階段から落ちなくて済んだ。もし階段から落ちていたらと思うと……ゾッとするよ」
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