強引社長の甘い罠
 翌日、祥吾は朝から様々な対応に追われていた。

 昨日、祥吾が信じられないほど無茶をしたことで怪我人が出なかったのは、本当に幸運だったとしかいいようがない。祥吾だって下手をしたら死んでいたかもしれないのだ。それについては、朝起きたときに何度も祥吾に訴えた。もう二度と、何があっても、あんな無茶はしないと約束をしてもらった。だって、そうしないと私の寿命も縮まるばかりだから。

 彼もさすがにそれは反省しているらしく神妙な顔で頷いてくれた。祥吾がいてくれないと私も平気じゃいられないってこと、いい加減分かってくれただろうか。

 祥吾はまず、戻ってきていた溝口さんに昨日、祥吾のせいで中央分離帯のガードレールに車をぶつけてしまったドライバーへの補償について指示を出していた。私の警護を担当していた人がそんなことまで対応するの?と内心驚いたけど、祥吾のことだ。もしかしたら特別な契約でも交わしているのかもしれない。あのうんざりするほどの財力に物を言わせて。

 私ももうそんなことでいちいち驚いたりしない。むしろ当然よね、と納得している自分がいてそれについては驚いている。
 祥吾はドライバーに破格の小切手を切り、車も破損した車とは比べ物にならないグレードのものを補償したらしい。相手もこれについては驚いたらしく、この件については丸く収まったも同然とのことだった。

 そして祥吾は何本かの国際電話をかけた。彼の流暢な英語で聞き取れた僅かな情報から、祥吾も近々アメリカに戻るということが分かった。

 私は今日も会社を休み、スイートルームの無駄に大きなダイニングテーブルで昼食を摂っている。少し疲れた表情の祥吾が、奥の書斎――私はもう一つのリビングだと思っていた――から戻ってきた。

「祥吾は食べないの?」

 用意されていた食事が一人分だったので聞いてみると、彼は疲労の色が滲む表情を少し和らげて首を振った。

「悪いが今は食欲がないんだ」

 ソファにどさりと体を預けた彼は、開いた足を投げ出すと首を逸らして頭をソファの背に載せた。私は立ち上がって彼に近づくと祥吾の隣に座った。彼は目を閉じている。しばらくその長い睫を眺めたあと、彼の手を握った。

「疲れているのね」

「……唯」

 祥吾が目を開けた。頭をもたげて私を見つめる。彼の深いブルーの瞳が私をまっすぐ捕らえた。

「後で、軽いものでいいから、少しだけでも食事をして。じゃないと本当に体を壊しちゃう」

 私が懇願すると、彼は目を細めて笑った。

「ああ、分かった。ありがとう」

 そして体を起こすと両手を私の髪に差し入れ、まじまじと私を見つめる。

「唯……」

「うん?」

「俺は本当に独りよがりだった」

「……うん」

 祥吾が私を抱き寄せた。

「俺の大切なものは君だけなんだ。君がいないとまるでだめだ。唯、俺は、君を愛してる」

「祥吾……」

「だからもう二度と無茶はしない。俺が君にとって……その……」

 祥吾が言いよどんだので私はクスリと笑った。いつも頭がキレて強引な彼なのに、今のこの自信なさげな様子はどう? 私は彼の腕の中から逃れると、彼がそうしていたようにその髪に自分の指を差し入れた。この黒曜石を思わせる艶やかな黒髪が大好きだ。少し引き寄せて間近で彼の澄んだ青い瞳を見つめる。

「祥吾は私にとって何よりも大切な人よ。私だってあなたがいないとまるでだめなの。あなたがいないと呼吸さえできないくらいに。だから私の傍にいて。私の前からいなくならないで。お願いだから無茶なことはしないで」

「唯……」

 祥吾の息がかかった。すぐに私の口は彼の口に塞がれた。感情をぶつけるような荒々しいキスだったけれど、この上ないくらいの彼の愛情が感じられる。私たちはしばしキスに夢中になった。あなたが好き。私がどれだけあなたを愛しているか、あなたはもう分かってくれた?

 長い長いキスの後、祥吾はやっと私を解放した。痺れた頭と潤んだ瞳でぼんやりとしてしまう。彼の濡れた唇を間近で見つめていると、それがゆっくりと動いた。

「明後日、アメリカに戻るよ。しばらく戻って来られない」

「うん……」

 祥吾が再び私を抱き寄せた。私の髪に顔を埋め囁く。

「だけど待っていて欲しい。やるべきことを片付けたらなるべく早く戻ってくる」

「うん、待ってる。だから祥吾は心配しないで。メイソンさんにも……会うんでしょう?」

 祥吾が抱き寄せていた腕を緩めて私を見下ろした。慎重に私から体を離すと彼は頷いた。少し顔が強張っている。そしてゆっくりと口を開いた。

「彼は……、ルークは、父の友人なんだ」

 私は頷いた。メイソンさんも言っていた。祥吾のことはずっと前から知っていたと。

 祥吾が会社を継ぐ前から、メイソンさんは祥吾のお父さんとずっと一緒に仕事をしていたそうだ。かけがえのない友人であり、仲間だったらしい。やがて祥吾のお父さんが病を患い亡くなった後も、メイソンさんは会社を継いだ祥吾を助け一緒に頑張ってきたそうだ。メイソンさんとは奥様のユリさんも含めて親交を深めていたらしい。

 だけどユリさんは体が弱かった。祥吾が会社を継いだときには既にユリさんは入退院を繰り返していて、メイソンさんは愛する妻を失うことを恐れていたらしい。そして莫大なお金をユリさんの治療費に回していた彼は、やがて資金繰りに悩むようになったそうだ。

「俺は出来る限りのことをしたいと思っていた。ルークとユリさんのためならお金の援助くらいどうってことはなかったんだ。だからルークに援助を頼まれたときも二つ返事でOKした」

 私は黙って祥吾の話の続きを待った。メイソンさんは祥吾に援助を断られたと言っていた。だけど祥吾は承諾したと言っている。誤解があったのか、それとも祥吾の気が変わったのか……。何か理由があるはずだ。

「俺はそうすることが当然でそれが最良だと思っていた。ルークにとっても、ユリさんにとっても……もちろん俺にとっても。だけどある日、俺が一人でユリさんを見舞ったとき、彼女に言われたんだ」

 そのときの様子を思い出しているのか、祥吾が遠い目をした。とても苦しそうで寂しい表情だ。

「彼女は俺に言ったよ。ルークからお金を貸してくれと言われても断って欲しいと……。彼はもうすでに多額のお金をユリさんのために使っていたんだ。彼女はそれに気づいていて苦しんでいた。そして、彼女の命が残り僅かなことも知っていて、最後はルークと一緒に自宅で過ごしたいのだと言っていた。彼女はルークを説得するつもりだったんだ」

「メイソンさんは、そのことを知っているの?」

 私が聞くと、祥吾は首を振った。

「分からない。俺からは話していない。ただ、次にルークに会ったときに俺は援助の話を断ったんだ」

 祥吾が前かがみになって右手で眉間を押さえた。私は彼の背中にそっと手を滑らせた。小さな子供をなだめるように、ゆっくりとその広い背中をさする。

「もしかしたらメイソンさんは知らないのかもしれないわ。だからあんなことを……。あるいは知っていてもそうすることしか出来なかったのかもしれない。祥吾、あなたは自分の口でこのことをメイソンさんに話すべきよ。私たち、今まで正直に話し合ってこなかったからすれ違ってばかりいたわ。でもそれは間違いだってもう学んだはずよ。だからメイソンさんにも話さなきゃ。だって……大切な友人なのでしょう?」

 私がそう言うと、祥吾はハッとしたように体を起こした。私の瞳を覗き込むように見つめている。

「そうだ。ルークは俺の大切な……友人だ」

 祥吾が笑った。深いブルーの瞳に希望の光を宿らせて口にした言葉は、彼の頑なになっていた心も溶かしたみたい。そんな祥吾に、私も心からの笑顔を見せた。

「ありがとう、唯。やっぱり君は俺の女神だよ」

 歯の浮くようなセリフだけれど私の心に素直に染みた。私たち、これからやっと二人で前に進めるのね。それからしばらく、私たちはソファの上で抱き合っていた。
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