強引社長の甘い罠
「俺の方は全然問題ないよ。唯が嫌じゃなければ、俺も今までどおり普通にやっていきたいから」

「……うん」

 聡が席を立った。

「ちょうど仕事も忙しい頃だし、時期としては良かったかもしれないな。俺も頑張るから、唯も……頑張れよ」

「え?」

「桐原社長。彼もきっと唯のことが忘れられないんだと思うよ」

「まさか」

 私はかぶりを振った。
 でも、聡は知らないのだ。祥吾が昨日私にキスしたとき、私を見下ろし嘲るように笑っていたことなど。

「じゃあ、俺は行くよ。ここは唯のおごりでいいよな?」

「え、ええ、それはもちろん」

 聡が軽く手を上げ店を出て行く。
 私はその背中を見送りながら、もう戻れないことを知った。
 ずっと私を支えて傍にいてくれた優しい彼。そんな彼に別れを切り出すことしか出来なかった私。
 聡の手を離した私にはもう何もない。彼と別れた理由でもある祥吾は、どうしてだか私を憎んでいるようだ。

「仕事を生きがいに出来れば、良かったのに……」

 今も、未来も、何もかもが失われた気がして、私は冷え切ったコーヒーに映る自分の情けない顔を暫くぼんやりと眺めていた。
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