強引社長の甘い罠
「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」

 私は皆川さんの誘いをうまくかわす方法が見つからなくて、かなり不自然な理由で席を立った。二人が口を揃えて「逃げた」と言っているのを背中越しに聞きながら私はそそくさとお店の奥にある化粧室へと向かった。

 モダンな雰囲気の化粧室にある大きな鏡を見ながら、私はとりあえず簡単に化粧を直すと口紅を塗りなおした。少し明るめのピンクで彩られた唇を見ながら、私はまた、あの夜のことを思い出してしまった。

 はじめて祥吾のオフィスに呼ばれた夜。再会して初めて彼は私の名を呼び、そして、私にキスをした。私の唇が彼の形のいい唇に塞がれたかと思うと、すぐに絡められた舌に、私はすぐさま反応し、そして夢中になった。

 彼はキスがうまい。ものすごく。私の理性がどんなに彼を拒絶しようとしたとしても、そんなものは彼のキスの前では意味がない。私はいつも、彼の望むように、彼に翻弄される。

 私はそれが好きだった。祥吾とつきあっていた当時、私はそうして彼に支配されることに満足し、幸福を得ていた。
 でも今は?

 私は首を振った。鏡の中の私が、今にも泣きそうな顔をしていたことに気付かない振りをして、化粧ポーチをしまうと化粧室を出た。
 もう、祥吾のことを考えるのはやめなければ。彼のことを考えるだけで、私は冷静じゃいられなくなる。今の私はあの頃とは違う。あの頃幸せだと感じていた彼の支配は、今はもう恐怖でしかない。大人になった私の分別も、彼のせいで正しく機能しなくなるのだ。

 化粧室のドアを開けた。
 席に戻ったら、皆川さんに合コンの話を断ろう。冷静に考えても、今はそんな気分にはなれない。そして、顔をあげていつものように笑ってみせるのだ。
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