フォンダンショコラなふたり 


僕を名前で呼ぶのは、ごく限られた人だけ。

以前のボスと、現在のボス、それから……指折り数えるが片手に収まってしまう人数だ。

その中のふたりが 「里久ちゃん」 と親しく呼んでくれる。

海外で貿易の仕事に携わっていた頃、イタリアで結歌さんという女性と知り合った。

オペラ留学していた彼女は、明るく陽気で、誰にでも好かれる性格で、人付き合いに積極的ではない僕も、彼女との付き合いは楽しかった。

めっぽう酒に強く、酔うと歌いだすその人は、僕を 「里久ちゃん」 と気安く呼び、いつの時も変わらぬ態度で接してくれた。

おりしも、彼女も僕も前後して日本に引き上げることになり、帰国後も連絡を取りあい会う機会も多いが、男女の仲には発展しない大事な友人だ。

彼女の親友が、現在のボスである近衛副社長の夫人であったことも、不思議なめぐり合わせである。


そして、もう一人は、目の前で僕に寄りかかって甘えている霧乃だ。

彼女との出会いは、10年も前にさかのぼる。

大学卒業後、アルバイトをしながらヨーロッパを旅していた僕を、



「ウチの仕事をやってみないか。語学の勉強にもなる。

君の将来のために、経験は武器にもたくわえにもなるはずだからね」 



そう誘ってくれたのが貿易商の須藤オーナーだった。

ヨーロッパの雑貨を扱う仕事をしていたオーナーの元で仕事を覚え、働く楽しみを知った。

ちょうどそのころ、学校の休みを利用して旅行にやってきたのがオーナーの親戚の娘、霧乃だった。

当時中学一年生、彼女は兄二人と一緒だったのに、なぜか僕にまとわりつき、「りくちゃん」 と親しく呼びかけ、滞在中片時も離れず僕の右隣りにいた。


それから、毎年バレンタインデーの頃になると彼女からチョコレートが届いた。

オーナーへの贈り物の中に、僕の分もついでに入れてくれたらしい。

中学生の小遣いで買える範囲のチョコレートは、日本であればどこでも買える品だが、僕を思い出して送ってくれる気持ちが嬉しかった。

やがて高校生になり、少し背伸びした大人のチョコレートが届くようになった。

大学生になった彼女からは、手作りの品が届いた。

チョコレートに添えられたメッセージカードには、『里久ちゃん大好き 霧乃』 と書かれていた。

カードに添えられる言葉は、毎年一言一句変わらない。

須藤オーナーから 



「僕のチョコにカードはないよ、里久のチョコレートには霧乃の愛が込められているね」 



と冷やかされたものだ。

一年に一度、仕事を兼ねて帰国したとき、霧乃に会ってバレンタインチョコレートのお返しをしてきた。

お返しと言ってもたいしたことはない、気持ちばかりの品を渡して話をする程度だが、霧乃は必ずこう伝えてきた。



「嬉しい、ありがとう。里久ちゃん、大好き」



女の子から大好きと言われて、恥ずかしい思いになることはあっても嫌な気分になることはない。

霧乃から伝えられる 「大好き」 を僕は密かに楽しみにしていた。


霧乃が大学二年生の夏休みには、一人旅でヨーロッパまでやってきた。

12歳の頃のように僕を頼ることもなく、ひとりで行動する姿に多少の寂しさを感じながらも、頼もしくもあった。

小さい頃の病気がもとで左目が不自由な僕は、段差が苦手で、左側に人がいると不安を覚えるが、霧乃はつねに僕の右側にいた。

寄り添ってくれる優しさを感じながら、女性らしさを匂わせる霧乃に、心がざわつき平静ではいられなくなっている自分に気がついた。

大人の女性になった霧乃は、たちまち僕を虜にした。

それからの僕は、霧乃だけを見つめている。


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