フォンダンショコラなふたり
フォンダンショコラなふたり
その日は、いたるところで甘い香りが立ち込めていた。
決まった彼女がいる男は別として、決まった彼女のいない男たちはバレンタインデーの一日を落ち着かない思いで過ごす。
女子社員が持参するチョコレートに、期待する男どもは少なくない。
その他大勢に配られるチョコレートでも 「ありがとう」 と感謝をこめてもらうが、他の男より少し大きい箱だったり、包装紙に特別感が漂うチョコレートを 「はい、どうぞ」 と優しく言葉を添えてもらったなら、これは本命ではないかと思ったりするのだ。
男は元来単純で純情な生き物で、渡される際の言葉やチョコレートの大きさで、彼女たちの本心を必死に探っている。
だいたい、みんながいる昼間に配られるようなチョコレートに期待する方が間違っているんだよと教えてやりたいが、彼らが期待する気持ちがわからなくもない。
日本においてバレンタインデーは、女性から男性へ気落ちを伝える日とされている。
日頃、この子いいな……と思いながらも意思表示できずにいる男どもにとって、彼女から告白されることを願っている日でもある。
彼女が自分に気があるとわかれば、俺も実はきみのことが……と言い出すきっかけがつかめるというものだ。
勇気に欠ける男にとって、バレンタインデーは実にありがたい日といえる。
また、彼女がいる男にとっても特別な一日だ。
いつも彼女に尽くしてばかりいるが、彼女から食事の招待を受け、プレゼントを渡され、ことによっては朝まで過ごすなど報われる日であるのだから。
そんな大事な日に残業となった数人に 「お疲れ様」 と声をかけると、そのうちの一人が 「勅使河原 (てしがわら) さん、代わってくださいよ」 と言いながら恨めしそうな目を向けてきた。
彼女との約束に遅れる、彼女の機嫌を損ねたくない、そんなところだろうが、頑張れよと無情に言い放ち、チョコレートでいっぱいの袋を抱えて部屋を出た。
ほかの課に比べて女子社員が多いため、俺がもらったチョコレートの数だけはかなりのものだ。
そのほとんどがちまちました透けた袋に入った 「本命外チョコレート」 だが。
”彼女” と言えるような子と付き合いがあったのは学生の頃だけ。
社会人になってからは女っ気なしだが、それを不満とも不幸とも思ってはいない。
見た目の強面と大学の応援団にいたことで、周囲から硬派であると思われている。
自分ではいたって普通の感覚で特別女を遠ざけたつもりはないが、「勅使河原は女の子から怖がられている」 と、久しぶりに会った同期の湊すみれから教えられたとき、身に覚えのない罪を犯したような気がした。
「勅使河原って名前だけでも近寄りがたいんだから、もっと柔らかい顔をしなさいよ。
笑いなさいって言ってるんじゃないのよ。もっとこう、眉をおろして口から力を抜いて」
「そんなのできるか。俺には無理だ」
「無理って簡単に言わないの。応援団でそう教わったんでしょう?」
「あぁ、そうだよ。おまえなんかに言うんじゃなかった」
「だって、聞いちゃったもん……」
聞いちゃったもん、なんて、ふつうの女が言うようなセリフを口にされると、思い出さなくていいことまで思い出すじゃないか。
俺たちにとって最重要機密事項である 「あの日あのとき」 がよみがえる。
顔が赤くなりかけて、それ隠すように彼女から乱暴に書類を奪い取った。
「だから、それがいけないの。男っぽいのもいいけどね、ほどほどにしなさいよ。
玲音 (れおん) って優しい名前をつけてもらったのに」
「名前のことは言うな」
「どうして」
「俺に似合わない。女みたいで嫌なんだよ」
「勅使河原、それよくないよ。ご両親が心を込めて名付けてくださったのよ。
大事にしなきゃダメでしょう」
また、湊すみれに怒られた。
またというのも、名前で怒られたのは二度目だった。
三年前のあの日も、名前を大事にするようにとしたたか怒られたのだ。