蜂蜜漬け紳士の食べ方
【1】 甘言はドラマの中だけにして
───もし君が20歳でも40歳でも、私は好きになっていたよ。
甘い甘い砂糖漬けのようなその言葉は、現実世界に戻ってしまえば、悲しくもあっけなく夢見の効力を失ってしまうのであった。
「桜井、記事チェック終わったのか!」
「はい、はい、すみません!今出します!」
「遅え!」
「すみません!」
桜井アキは、以前の取材担当であった画家・伊達圭介と、まさしく恋愛ドラマの如く恋人同士になれたのだが
しかし現実は、そんな付き合いたての甘ったるい妄想を容赦なく削ぎ落とすように、彼女へ降りかかってきている。
まさしく今、現在。
彼女は『修羅場』真っ最中だった。
日が真上に来ても沈んでも、はたまた終電間近になっても、相も変わらず編集長と自分の机を何往復も走り回っている。
それもこれも、入稿ギリギリの原稿を担当していた中野が、急性胃腸炎でダウンしたのが原因だった。
急性胃腸炎。
空気を読まず。
しかも、担当していた原稿を上げる前に。
本来であれば、中野と同期である桜井に少しでも同情の念を向けるのが正しいのだが
その仕事をまるまる彼女に押しつけられてしまったということ、
そして中野が締め切りまで余裕を持ってきちんと仕事をあげなかったというのが事態の最大の原因だということで、彼女にはもはや同情の一念はカケラすら残っていなかった。
パソコンのエンターキーを押す音はやたらうるさく、指に怨念がこもっているようだ。
「先輩、記事校正出来ました」
「ありがとう!そこに置いてくれる?」
今夜は、隣席の綾子も付き合い残業だ。
入稿ギリギリの今夜、騒然とする編集部の中を一人「お先に失礼しまーす」なんて飄々と帰られる神経の持ち主以外、終電前の帰宅は難しいだろう。
その辺は後輩の綾子だって身に染みて学んでいる。
彼女もまた、『肌艶サポート!』とピンクの文字で書かれた栄養ドリンクを片手間に飲んでは、パソコンに見入っていた。
「…綾子。それ、高そうだね」
栄養ドリンクの瓶をチラチラと見ていたアキに、綾子が瓶に口をつけたまま顔を向けた。
「あ、これですか?そうですねー、結構しました」
「いくら?」
「一本500円」
「うわ、本当に高い…」
あっさりと提示されたその金額に、アキの眉間に皺が寄る。
「でも良いですよぉ。これ飲めば、修羅場超えても吹き出物出来ないし」
綾子の言葉に、彼女はおもむろに自分の顎を触る。
二日前にそこへ出来たニキビはいまだに赤く腫れたままだった。
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