蜂蜜漬け紳士の食べ方
【2】 事実は小説より酷なり
唐突かつ劇的な変化は、春も半ばの生ぬるい夕方に訪れた。
「…え?モデル?」
今夜は珍しく定時に仕事を上がれて、浮かれ気分でパンプスを履いて。
今までずっとずっとキャンセルになっていた、夕ご飯デートの約束でも取り付けようと伊達に電話した矢先だった。
薄暗くなり始めた街並みは、ほんの少し開いた彼女の目をうまく隠す。
『そう。モデル』
アキは片言のように口を強張らせたが、返ってきた伊達の声は普段と少しも変わっていなかった。
『今までずっと抽象画を描いていたから、モデルを目の前にして描くのも刺激になるだろうと、スポンサーがね』
彼女は、横断歩道の信号が青になっても、その太い縞柄へ足を伸ばそうとしなかった。
道行く人が、まるで早送りのようにアキの視界から流れていっても。
彼女が夕ご飯の約束を取り付ける前に、伊達から話されたのはなんと『美術モデルを雇う』という話だった。
夕暮れ近づく駅前のざわめきは、電話越しの彼の声をより際立たせる。
「…それは…良かったですね、ええ、そういうのも大事ですよね、確かに」
自然にこぼれたセリフとは真逆に、アキの唇は強張った。見えない氷を唇で食んでいるように。
しかし彼はそれに気付かないのだろう。
電話向こうの伊達は何も気にしない風に、そのまますんなりと話を続けていく。
『それで、お願いなんだけどね。しばらくマンションに来るのを控えてくれるかな』
アキは思わず「へ」とか「え」とか、そんな気の抜けた音をボロリこぼした。
『…いや、君に来てほしいのも山々なんだけど。モデルはヌードを斡旋してもらうから。
ほら、君とモデルが顔を合わせたら気まずいだろう?』
「あ、あー…そうですか、ヌード…」
アキは、いつのまにか伏せていたらしい視線をあげた。
目の前の横断歩道信号はとっくに赤へ戻り、再び車の往来が始まる。
『別にやましいことじゃないよ。あちらも仕事だし、私も向こうを『画材』としか見ないから』
「ええ、まあ、そうですよね」
電話の向こうで、伊達なりに何か気遣いの弁を述べているのだろうが
そんなことはもはや彼女の耳には入らなくなっていた。
代わりに、大人びた相槌ばかりを口にする。
いかにも「彼氏の職業を理解していますよ」と、彼に思われるように。