蜂蜜漬け紳士の食べ方
この時、初めてアキは『二人でここへ来て良かった』と思えた。
でなければこんなドロリとした心理状態で、まともに伊達の言った話をメモしていられるとは思えないし
ましてや編集部に戻って、何も汚れていないクリアな視点で今日の記事が書けるとも思えない。
インタビューに答えるワイシャツ姿の『伊達圭介』を簡単に5枚ほどフィルムに収め、
用意してきた質問事項を彼へ投げかけ、首尾よくインタビューは進んでいく。
かつて悪評高く揶揄された画家はとても協力的で、紳士だった。
「あ、そろそろお時間ですか」
伊達が意味ありげに壁の時計を見る視線に合わせ、中野が言う。
約束していた取材の時間、きっかりだった。
「悪いけど、これから簡単な座談会があってね」
「それは失礼致しました。お忙しい中、時間を頂きましてありがとうございます」
早々にバッグを担いだ中野は、椅子を立ち上がった。
つられて頭を下げた彼女に、画家の視線が絡まる。
「…」
しかし先に視線を外したのは、アキだった。
彼女に特別な悪意があったわけではない。
それは「相手から何か言われる前に」と無理にキッカケを千切ったのと同じだった。
「ほら、行くぞ桜井」
「あ…、うん」
背中に粘つくような、そんな罪悪感は確かに感じた。
けれど伊達のいる事務所を出てしまえば、そんな罪悪感など簡単に消え去る。
アキの予想以上の人出が、個展会場を埋め尽くしていたのだ。
伊達へのインタビューを始めて、まだ1時間と経っていない。
それにも関らず、展示のスペースには軽く100人ほどの客が、思い思いに伊達の絵を鑑賞している。
「…すげぇな」中野がボソリと呟いた。
「現代画家で、初日にこれだけの人数が来た個展なんて久々に見たな」
「…」
「小笠原の先生だって、こんなに来てないんじゃないか?」
中野がふいに口にした名に、アキはいつか見たでっぷり体型の日本画家を思い出す。
彼の指摘通り、現代画家の個展でここまでの人出があるのは珍しい。
前々から噂されていた「悪評」が功を奏したのだろうか?
ふいに中野が、「あ」と端的な一音を口にした。
その視線を辿るようにアキが振り返る。
同期の視線の先には、伊達と一人の女性がいた。
とても豊かな黒髪。
スラリとした体型に、後ろ姿だけでも、彼女が一般のファンではないことをぼんやりと知る。
肌の白さをより活かすようなシックなワンピース。
そして…。
「…」
アキの視線は、後ろ姿の女性を上から辿り、そして彼女の足元でギクリと止まる。
美しいルージュ色の高いヒール。
それは以前、伊達の部屋の玄関に並べてあったあの靴そのものだった。
そのたった一色で、彼女が伊達の油絵のモデルであることを唐突に知る。
どうして、こう、唐突に分かっちゃうかな。
まるで準備のない体へ固いこん棒を打ちこむような衝撃に、彼女は薄ら笑う。自嘲的に。
二人は、何やら談笑をしているらしい。
伊達へ渡された小さな花束から、どうやらモデルの彼女がここへ挨拶へ来たのだと知る。
当たり前だ。自分をモデルにした作品を並べる個展で、画家本人へ挨拶へ来るのは社会人として当然だ。
そう、当たり前。
何もオカシイことなんかじゃない───。
「お…珍しい、あの伊達先生が笑ってら」
モデルの彼女へ向けられている伊達の笑顔は、まさしく、アキに向けるそれと同じだった。
少し細い目をすがめ、口端を緩め…さっきのインタビューで見せた薄ら笑いとはまるで違う穏やかなものだった。