蜂蜜漬け紳士の食べ方
会社屋上に繋がる階段は、もっぱら彼女の隠れ電話専用の場所となっていた。
人気のない空気は冷え冷えとアキの両足をくすぐる。
「…そういう訳で…すみません、約束の8時には間に合いそうにないんです」
灰色の感情が滲み出るような彼女の声に、しかし伊達はいつもと変わらない飄々とした調子で返す。
『そう』
電話越し。
向こうの彼の表情はもちろん見えず、そして返される言葉からも声からも、彼の本音は読み取れなかった。
「あの、もし良ければ、待ち合わせの時間を遅らせてもらえれば…」
『仕事が忙しいんだろう?無理はしない方がいい』
彼が言うことは、至極もっともだった。
仕事が忙しいのは事実であるし、無理をしたところで確実に仕事を終えられる自信もない。
そしてもって、以前伊達の目の前で貧血を起こした彼女が言う「大丈夫です」ほど、効力が弱いものはないだろう。
しかしそれでも、アキは伊達と顔を合わせたかった。
今夜は、彼と久々に出かける予定だったのだ。
場所はどこでもいい。
駅前のつけ麺屋だって文句はない。
ご飯を一緒に食べ、たわいのない雑談をし、その後は冬の気配がまだ消えない公園を歩いたり…駅前の店をひやかしに見るのだってきっと心躍るだろう。
それを叶えるには果たしてどう答えたものか、アキは耳に当てていたスマートフォンを無意識に強く握り込む。
こういう時に、自分の表現力の無さが恨めしい。
『…別に今夜逢えなかったからと言って、どうなる訳でもないよ』
伊達の抑揚ない声が耳に触れ、アキの唇は少し強張った。
「それは、…まあ、そうなんですが」
『またの機会に。じゃあ。仕事頑張りなさい』
また誘って下さい、と彼女が言うよりも早く、会話はそれきり彼によって断ち切られた。
スマートフォンに浮かぶ『通話終了』の文字は画面とアキの顔を煌々と照らすばかりで、無表情の彼女を映し返してみせた。
情緒もロマンも、何もない。