蜂蜜漬け紳士の食べ方



会社屋上に繋がる階段は、もっぱら彼女の隠れ電話専用の場所となっていた。

人気のない空気は冷え冷えとアキの両足をくすぐる。



「…そういう訳で…すみません、約束の8時には間に合いそうにないんです」


灰色の感情が滲み出るような彼女の声に、しかし伊達はいつもと変わらない飄々とした調子で返す。


『そう』


電話越し。
向こうの彼の表情はもちろん見えず、そして返される言葉からも声からも、彼の本音は読み取れなかった。



「あの、もし良ければ、待ち合わせの時間を遅らせてもらえれば…」

『仕事が忙しいんだろう?無理はしない方がいい』



彼が言うことは、至極もっともだった。


仕事が忙しいのは事実であるし、無理をしたところで確実に仕事を終えられる自信もない。

そしてもって、以前伊達の目の前で貧血を起こした彼女が言う「大丈夫です」ほど、効力が弱いものはないだろう。


しかしそれでも、アキは伊達と顔を合わせたかった。


今夜は、彼と久々に出かける予定だったのだ。

場所はどこでもいい。
駅前のつけ麺屋だって文句はない。

ご飯を一緒に食べ、たわいのない雑談をし、その後は冬の気配がまだ消えない公園を歩いたり…駅前の店をひやかしに見るのだってきっと心躍るだろう。



それを叶えるには果たしてどう答えたものか、アキは耳に当てていたスマートフォンを無意識に強く握り込む。

こういう時に、自分の表現力の無さが恨めしい。



『…別に今夜逢えなかったからと言って、どうなる訳でもないよ』


伊達の抑揚ない声が耳に触れ、アキの唇は少し強張った。



「それは、…まあ、そうなんですが」

『またの機会に。じゃあ。仕事頑張りなさい』


また誘って下さい、と彼女が言うよりも早く、会話はそれきり彼によって断ち切られた。

スマートフォンに浮かぶ『通話終了』の文字は画面とアキの顔を煌々と照らすばかりで、無表情の彼女を映し返してみせた。


情緒もロマンも、何もない。




< 3 / 82 >

この作品をシェア

pagetop