蜂蜜漬け紳士の食べ方
アキが中野を見送っている間に、伊達圭介の姿は見えなくなっていた。
絵のモデルも同じく、いない。
「俺、伊達圭介の絵、昔から好きなんだよねー」
「でも復活してくれてめっちゃうれしー!」
会場を行き交う人々の会話に、幾度となく混じる恋人の名前。
彼女はぼんやりと淡い称賛を聞きながら、モデルを描いたその絵を見上げた。
「…………」
何て綺麗な絵だろう。
…ただ一つ言うなら、見る側の自分がまっさらだったらもっと良かったのに。
アキは、自分でも気付かないほど小さく自嘲する。
──まさか、あの週刊誌に載っていた女性、モデルだったりしてな。
昔から同期の男は、人の深層を鋭くえぐってくる。
無遠慮に。
確実に急所を。
まさに彼の言うとおり週刊誌に載っていた女性、後ろ姿の彼女が履いていた靴は、赤いハイヒールだった。
ファンのままでいた方が良かったのかしら。
それだけじゃない。
伊達が描いた絵を見て確信した。
誰がどう見たって、あの艶やかな長い黒髪と華奢な肩はモデル自身だ。
ファンのままでいた方が良かったのかしら。
それに、インタビュー時の伊達は酷く冷静だった。
アキとほとんど目も合わせず、笑っても、どこか自嘲的な…。
ファンのままでいた方が良かったのかしら。
「…ファンのままの方が、良かったのかも」
ぽつり。
呟いた黒い本音は、会場のざわめきとともに浮かんで、うっすらと消えていった。
ただここにいても惨めなだけだ、帰ってしまおうと足を出入り口へ向けた瞬間だった。
どこかにいるらしい伊達圭介から、一通のメールが届いた。
『まだ会場?』とだけ。
「………」
スマートフォンの画面に、驚くほど冷静な目をした彼女が映る。
『もう帰ろうとしていました』
するすると指を滑らせ、送ろうとした一文にすかさず彼からの新着メールが重なる。
『仕事が終わるのは何時?迎えに行くから』
「………」
人差し指が、書きかけていたメールの本文を消去する。
『わかりません』
画面からするり飛び去ったメールのアイコンを見送らず、アキは自分の鞄へ乱暴にスマートフォンを突っ込んだ。
彼女の灰色の感情に反して、会場は時間を追うにつれ更なる熱気に包まれ始めている。
どこか鞄の中のスマートフォンが震えた気がしたが、そのまま無視をした。
彼女のぺたんこ靴は、いつの間にか個展会場をあとにしていた。