蜂蜜漬け紳士の食べ方
結局編集部へ戻ってきたアキだったが、土日出勤だったこともあって、既に中野の姿は無かった。
いつもどおり、編集部の主の如く居座っていたのは編集長だけだ。
「おーう、お帰り。中野は先に帰ったぞ」
「あ、…そうですか」
編集長は、デスクの上に足を乗せながら先月号の『キャンバニスト』をぺらぺらと捲っていた。
この人はどうも、特に仕事も無いのに出勤するのが性癖のようだ。
「どうだった、伊達先生の個展は。インタビューはまあまあだったって中野は言っていたけど」
鞄を下ろしながら、アキは苦く笑った。
「ええ、すごい人出でした。伊達先生の人気をようやく目の当たりにしたって感じですね」
彼女のおぼろげな感想に、編集長は豪快に声を上げて笑う。
「あっははは、だろうな!
日展の受賞後は凄かったんだぞー?
若かったのもあったんだろうが、一時期は若い女性で追っかけサークルみたいなのも出来ててな」
「追っかけ?……へえ」
「ま、女ってのはクールで地位がある男が好きだろ。
伊達先生もメディアにはほとんど出ない、ファンにも媚びないってんで、露出が無かったにも関わらず結構長い間追っかけサークルはあったらしいけどね」
「編集長、コーヒーはいかがですか」
「ん?ああ、ちょうだい」
口端を少しだけ上げたアキはそのまま給湯室へと消えた。
この広い編集部に、編集長と二人だけでは、この突発的な弾丸もかわせそうにもない。
だからこそこうやって無理に会話と空間を引き千切って、編集長にコーヒーを入れれば「伊達先生」の話はもう飛び交わないと、そう思っていたのだが。
彼女の考えはほとほと甘かった。
無意識に少し濃くなってしまったインスタントコーヒーを、編集長は美味しそうにずるずると啜った。
「…で、伊達先生の個展についての記事だけど」
弾丸はやはり切れなかった。
「はい」
「開催時期が終わった月から早々に載せる予定だから、そのつもりでいてくれな。
鉄は熱いうちに打った方が良い」
アキは、曖昧に頷きながら同じく入れたばかりのコーヒーを啜る。
やっぱりいつもより濃く、インスタント故のえぐみが舌を痺れさせるようだ。