蜂蜜漬け紳士の食べ方
【4】 前についた後ろ向きの目

「先輩?」

「…………」

「せんぱーい」

「…………」

「先輩ってば!」


いつのまにか空白だった思考は、後輩に肩を揺さぶられることで突如千切られた。


「あっ、ああ…ごめん、なに?」

朝からほうけたままの口でそう返せば、後輩の綾子が分かりやすいふくれっ面で答える。


「編集長。さっきから先輩をお呼びですよぅ」


綾子の指す方向へ慌てて振り返ると、少し眉根をひそめた編集長がデスクからこちらを見ていた。
幾度となる呼びかけに答えなかった為なのは明白だ。


「ごめん、ありがとう」

「先輩、この頃どうしたんですか?何か悩みごとでもあるんですか」


珍しく自分の状況を案ずる後輩の言葉に、アキはあえて半笑いをして見せただけで、さっさと編集長の元へ向かった。
いったん気持ちを緩めると、「何」を彼女へ口走るか分からなかったのだ。


「申し訳ありません、お待たせいたしました編集長」


やはり機嫌が悪いままの編集長が、ちらりとアキを見、パックカフェオレのストローを下品に噛みながら言う。

「この前の個展の記事、見せてもらった」と。
その手にあるのは、数日前に中野と共同で作成した伊達圭介個展に関する記事だ。


「まあ、大筋よろしい」

「ありがとうございます」


正直、もう桜井アキは

『伊達圭介』に関する仕事から遠のきたかった。


「あとはチェックしたところの言い回しと…それくらい直してもう一回提出よろしく」

「分かりました」

アキは、赤字のついた原稿を受け取った。
確かに編集長が言うとおり、赤字の訂正は量が少ない。


正直、もう桜井アキは
『伊達圭介』に関する仕事に関わりたくなかった。


今回の一連で、『自分はプライベートと仕事を完全には区別出来ない』という事実が嫌というほどに分かったからだ。

一応、一人の編集者として。
記事を書いている時は頭をまっさらにし、一人のファンとしての視点で文字を連ねられた。
だが、結局そこまで。

いったんパソコンのキーボードから離れてしまえば、『画家・伊達圭介』としてではなく一人の男性としての彼が、彼女の思考を曇らせる。


私がもっと可愛らしかったら良かったのかな。

もっと早く「寂しい」って伝えたら良かったのかな。

…そもそも、一人のファンのままでいた方が良かったのかな。


彼に聞くまで答えなんて分からない『永遠の禅問答』を浮かべては消し、また浮かべる。

それは丸いトゲを飲みこんだように、彼との事はチクチクと体内から痛みを届けていき…。

そんな堂々巡りを続けながらの仕事は、酷く心を疲弊させるだけでなく、桜井アキの悪い癖が出始めていく。

苦痛の原因を解決しよう、なんていう前向きな考えではなく
苦痛の原因を根こそぎ葬ってしまおう、という後ろ向きな考え方だ。


そう、つまりはもう、「こんなに悩むのなら、もう伊達との関係を終えてしまえばいい」という…。



「あの、編集長、伊達先生の記事はもう…」

「それで中野には言ってたんだけど。
今回の伊達大先生の目玉、ヌードモデル使用の絵画について。
そのモデルにインタビューしてくれるか?桜井」


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